2021年9月26日日曜日

よきサマリア人の譬(2021年9月26日 主日礼拝)

自転車で週報を配布する〔2021年9月19日)
旧讃美歌 520番 しずけきかわの 奏楽・長井志保乃さん



「よきサマリア人の譬」

昭島教会 秋場治憲兄

「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに(私が)払います。」

                         2021年9月26日 



                         昭島教会 秋場治憲    



          「よきサマリア人の譬」



               ルカによる福音書10:25~37



               今週の聖句:ルカによる福音書10:35



 



今日のテキストは誰でもよく知っている「よきサマリア人の譬」です。そのお話は絵画的であり、また紙芝居的でもあり、教会学校でも恰好の教材となっています。私も何度か教会学校で取り上げたことがありますので、教会学校の礼拝にいつも出席されている方は、部分的には聞いたことがあるかもしれません。その時のことを思い出しながら読んでいただけたらと思います。



ただそれだけに私達が聖書を読んでいる時でも分かりきっているお話ということで、この物語に登場してくる祭司やレビ人のようにこの物語を横目に見ながら通り過ぎてしまうことはないでしょうか。よきサマリア人の譬か、「隣人に親切にしましょう」という教会学校のお話だ、というような先入観をもってはいないでしょうか。今日はこの分かりきっていると思われる物語を、今少し深堀をしてそのメッセージに耳を傾けてみたいと思います。



 



新約学者が10人集まると、10の意見があると言われるくらい、様々な意見がある中で、この「よきサマリア人の譬」は10人が8人までが間違いなく主イエスご自身が語られたものであるという点で一致しているとのことです。



このお話は色々な角度から読むことが出来ます。「律法と福音」「宗教と道徳」「永遠の命」「隣人とは」「信仰の確かさ」等、いずれの角度から読んでも実に深い示唆を与えてくれるお話です。それだけに内容は深く、全聖書がここに凝縮されていると言っても過言ではありません。礼拝の中でのお話は、時間の制限があり充分にお話することは出来ませんので、これを以って不足を補っていただけたら幸いです。



 



このお話を理解するためには、ユダヤ人とサマリア人の歴史に目を向けなければなりません。この歴史を理解しなければ、どうして元々は一つの民族であった両者が、骨肉の争いをするようになったのかが分からず、またこのお話も十分には理解することができません。また律法の規定にも目を向けなければなりません。そうしないと祭司やレビ人の行動を理解することができず、またイエスの言葉の意味も十分には理解することができません。従って、普段あまり読んだことのない旧約聖書のいくつもの箇所を参照しなければなりません。少々骨の折れる作業が必要です。でもこの作業を一つずつクリアしていくと、最後には今まで見たこともなかった景色が見られるのではないかと思います。



 



冒頭25節、新共同訳も口語訳も「すると」という言葉で始まっています。そうすると<どうすると?>ということが気になります。そこで少し前に目を転じますと、そこには七十二人が喜びにあふれて帰ってきた弟子たちを主イエスが迎えた時の様子が記されています。10:17~24を読んでみてください。今回はこの内容には深入りせず、この後に続く律法の専門家との関係においてだけ見てみたいと思います。



 



17節「主よ、お名前を使うと、悪霊さえも私達に屈服します。」18節「私は、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。」21節「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。』」。23~24節「それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。『あなた方の見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなた方が見ているものを見たかったが、見ることはできず、あなた方が聞いているものを聞きたかったが聞けなかったのである。』」



 



この状況をこの律法の専門家は間違いなく近くにいて、一部始終を見聞きしており、彼がこれからイエスに対してする質問は、それに対する反応であったと言うことをこの「すると」という言葉が示しています。上記の言葉を律法の専門家が聞いたとしたら、どんな思いを持つか考えながら読み返してみてください。当時のユダヤ人の社会では律法の専門家とは、神に関して必要なあらゆる知識を有する者、知恵あるもの、賢い者、教える者でした。今、目の前でくりひろげられている状況は、その彼の専門分野が完全にイエスの手に渡ってしまって、この分野の専門家であるはずの彼は、完全に蚊帳の外に置かれており、無視されてさえいます。これは専門家としては黙っている訳にはいきません。彼のうちにはイエスに対する対抗意識、競争心、嫉妬心が沸き起こってきており、その結果としての質問が「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。[1]」という質問になったのです。イエスはこの律法の専門家の下心を察し、その質問に対してイエスは「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」と問い返します。これに対して律法の専門家は専門家らしく、得々として自分の知識を語りだします。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい[2]、また、隣人を自分のように愛しなさい[3]、とあります。」と。イエスは答えます。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と。



 



さてここで図らずもこの律法の専門家の下心が露見してしまったのです。彼は十分すぎるほど答えの分かっていることを、イエスを試すために質問したということがばれてしまったのです。「先生」という呼びかけも、上辺だけのものであったことが明るみに出てしまったのです。そこでこの律法の専門家は、自分の下心の隠ぺいとイエスとの立場の違いを鮮明化させようとして、「自分を正当化[4]しようとして」(新共同訳)新たな質問を繰り出すのです。「では、私の隣人とはだれですか。」と。そこでよきサマリア人の譬が始まります。



 



エルサレムからエリコまで地図上の直線距離で22㎞、実測値では30㎞になるそうです。標高はエルサレムが790m、エリコは-250m、その落差は1040m、これは47m/㎞となりかなりの勾配となります。従って道は曲がり、必然的に死角が多くなります。強盗どもには格好の場所となったようです。



 



この「隣人とはだれですか」という質問の背景には、レビ記19:18の「復讐してはならない。(自分の)民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」という律法がありました。また少し前の15、16節には、「あなた達は不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。」カトリック教会の司祭でもある井上洋二著「新約聖書のイエス像[5]」には次のように解説されています。「隣人とは、明らかに同じアブラハムを祖先にいただく同胞のことであり、異邦人(サマリア人も外国人との混血児であり、異邦人同様にみなされていた)は隣人の対象から除外されている。「あなたの国の人々を恨んではならない」ということは、これをひっくりかえせば、同胞以外の人なら恨んでもよいということにもなろう。ある人々にとっては、敵国の手先になって税金を同胞からしぼりとっているローマ直轄地の取税人や、駐屯しているローマ兵を相手に春を売っている売春婦などは、もはや隣人とは考えられていなかったのではなかろうか。」と。取税人や売春婦と共に食事をするあなたは、この律法の規定を理解していないのではないか、というのが律法の専門家の趣旨です。よきサマリア人の譬は、その質問に対するイエスの答えとなっています。先の地理的、地勢的状況も念頭に置いて、イエス様が語られた以下の物語を読んでみて下さい。このお話には「よきわざ」と「信仰の確かさ(救い)」という二つのテーマが、最終的には一つに合流していく様子が描かれています。



 



<ルカ福音書10:30~37>



「ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服を剥ぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下ってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けたひとです。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(新共同訳)



 



ルカ福音書ではこの出来事はイエスがガリラヤからエルサレムへ向かう途上での出来事としています。その旅の冒頭にサマリア人から歓迎されないイエス一行の話(ルカ9:51~56)が出ています。弟子のヤコブとヨハネが、「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか[6]」とまで言ってイエスにいさめられています。



このことからもユダヤ人とサマリア人が骨肉の争いをしていたことがわかります。サマリア地方を通ってエルサレムに向かう巡礼者たちが、度々襲われていました。他にもシカルの井戸で水を飲ませて欲しいというイエスに、水を汲みにきたサマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。[7]」と言っています。極めつけはイエスに対しても「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれている。[8]」とさえ言っています。ユダヤ人とサマリア人がどうしてこんなに憎み合い、争うようになったのかというと、北王国イスラエルは紀元前724年、アッシリアのサルゴン二世によって滅ぼされ、住民は捕囚としてアッシリア[9]へ連れていかれました。サルゴン二世はイスラエルに多くの外国人を移住させ、結果として残された人たちとの雑婚が始まり、イスラエルはその信仰の純粋性を失うに至るのです。この時の様子が列王記下17:24~41に記されています。その後アッシリアはバビロンに滅ぼされ、バビロンは紀元前586年エルサレムを陥落させ、ユダヤの住民は捕囚として1600㎞も離れたバビロンへ連れていかれます。この捕囚は50年の長きに及び、その間にメソポタミヤ文明の影響を受けたと言われています。しかしその後バビロンはペルシャに滅ぼされ、ペルシャ王キュロスはイスラエルの民の解放を宣言[10]し、民が帰国してエルサレム神殿の再建に着手することを認めます。その先遣隊の中心となったのがエズラ、という預言者です。エズラはユダヤの民がこのような捕囚にあったのは、神の律法を守らなかったからであるとして、厳格に律法を遵守することを打ち出します。異邦人の妻を持つ者は即刻その妻を去らせることを強要[11]したのです。また神殿再建に際してサマリアの住民からの協力を断り、サマリア人の神殿受け入れを拒否[12]しています。ユダヤの民はそれまでエルサレムの神殿を中心としてきていたのを改め、各地に会堂を建設して律法の遵守を徹底したのです。サマリア人はこれに対抗し、ゲリジム山に自分たちの神殿を建立し、自分達のモーセ五書を編集しています。この後ユダヤの地は紀元前333年アレクサンダー大王によりシリア、パレスチナが征服され、紀元前63年にローマの将軍ポンペイウスによってエルサレムが征服され、ローマの属州とされます。そして紀元前6・7年ごろ主イエスが誕生するのです。ユダヤ人とサマリア人の確執は続き、様々な出来事を通して更に増幅されてイエスの時代に及んでいたのです。



アレクサンダー大王[13]の東方遠征は、一つの歴史的出来事に過ぎませんが、彼は後の支配のため遠征の際、多くの言語学者を同行し征服した各地に配置していったのです。インドとの国境線からギリシャのマケドニアまで、そしてシリア、パレスチナ、エジプト、北アフリカという広大な地域を征服したことは、中学、高校の歴史で学んだことです。これは同時にイエスの福音が世界に伝えられるための下準備となりました。聖書がギリシャ語で書かれ、広く世界中の人たちがその福音に触れる機会の創出となりました。また離散したユダヤ人の子孫たちはギリシャ語の世界で成長し、もはやヘブライ語を理解出来なくなっていましたが、旧・新約聖書のギリシャ語訳聖書が登場して彼らの理解を助けました。このギリシャ語はコイネー(共通語)と呼ばれ、福音の普及に大きな役割を果たしたのです。



 



よきサマリア人のお話に戻りますが、律法を遵守することが神の意志であると考えるユダヤ人、祭司とレビ人がその代表として登場してきます。レビ人[14]の歴史はモーセの時代にさかのぼりますが、神殿に仕える務めを託された者達で、神殿、幕屋に付属する器物の管理や楽隊、合唱隊の役割を受け持っていました。これら神殿における役割を受け持つ祭司とレビ人が傷ついた旅人[15]を捨て置き、骨肉の争いをしてきたサマリア人が手を差し伸べたというのは全く意外なことであり、驚きだったのです。ありえないことだったのです。現代の私達から見れば、この神殿に仕える祭司とレビ人が半死半生となっている旅人を見捨てて立ち去ったということは、許されざることと思われるかもしれませんが、ここにも律法の壁が立ちはだかっていたのです。



 



1はレビ記21:1「親族の遺体に触れて身を汚してはならない。2.ただし、近親、すなわち、父母、息子、娘、兄弟、3.および同居している未婚の姉妹の場合は許される。4.間違っても、親族の遺体に触れて、身を汚すことがあってはならない。」という規定です。第2は民数記19:11~13「どのような人の死体であれ、それに触れた者は七日の間汚れる。12.彼が三日目と七日目に罪を清める水で身を清めるならば、清くなる。しかし、もし、三日目と七日目に身を清めないならば、清くならない。13.すべて、死者の体に触れて身を清めない者は、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断たれる。清めの水が彼の上に振りかけられないので、彼は汚れており、汚れがなお、その身のうちにとどまっているからである。[16]」という規定です。



 



祭司もレビ人もこの規定を知らないはずはなく、もしその旅人が死んでいたなら神殿での聖務につけなくなると考えたことでしょう。目の前に横たわる人間よりも、律法第一主義を旨とする二人にとっては律法に従ったまでのこと、なのかもしれません。しかし、この点こそが主イエスが批判して止まない点なのです。



 



33.ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、34.近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35.そして、翌日になるとデナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』36.さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。



37.律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。行って、あなたも同じようにしなさい。



 



 イエスは律法の専門家の質問に正面から答えてはいません。「私の隣人とはだれですか。」という質問は、どこまでが私の隣人なのか、と問うているのです。主イエスが食を共にしている取税人や売春婦やサマリア人も含まれるのか、と問うているのです。これに対するイエスの答えは、誰が追いはぎに襲われ半死半生で道端に倒れている旅人の隣人となったか、というものでした。イエスは律法の専門家に問い返すことによって、彼のその問の設定そのものが間違っているということを指摘しているのです。ユダヤ人達が見下して止まないサマリア人をして、隔ての中垣を取り除き、民族、宗教、人種、地位等に関係なく、助けを必要としている人の隣人になることが、隣人を愛するということであり律法が求めていることである、と言っているのです。ユダヤの民族主義に凝り固まった律法(解釈)に風穴が開けられ、キリスト教が世界宗教としての基を据えた瞬間でもあります。



この律法の専門家の最後の言葉、「その人を助けた人です。」という言い方も、すべて代名詞で答えています。素直に「サマリア人です」という答えにはなっていません。この言い方は聞いたことがあります。放蕩息子の兄の言葉です。「あなたのあの息子が、・・・」であり、自分の弟ではなくなっています。私達もよく使うのではないでしょうか。「あの人は・・・」「あの方は・・・」と。どこかで自分との関係を断ち切っている使い方です。相手を物(it)として見ている時の使い方です。



 



 マルチン・ルーサー・キング牧師がこの「よきサマリア人の譬」をテキストにして説教した際、祭司とレビ人は自分がこの人を助けたなら、自分はどうなるか、と考えた。サマリア人はもし私が今この人を助けなかったなら、この人はどうなるか、と考えた、と語っていたというのをどこかで読んだことがあります。イエスの指摘していることを要約した言葉ではないかと思います。



 



 ところでこの譬については古来、全く別の解釈がなされてきました。それはこの旅人はアダムであり、律法の下で罪の呪縛のもとにのたうち回る罪人であり、この人によきサマリア人であるキリストが手を差し伸べるという理解の仕方です。その視点から読むと、サマリア人はその旅人の傷にぶどう酒を注ぎ、油を塗り、包帯をしてその傷を包み、自分が座すべきろばの背にこの旅人を乗せ、ご自身は本来この旅人が歩くべき埃にまみれた道を歩き、宿屋に連れて行って介抱した、となります。ルターはここで「聖なる交換」が行われていると言っています。我らの罪がキリストの罪となり、キリストの義が我らを覆われる、というのです。



35.そして、翌日になるとデナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』と。私達はこの言葉を軽く聞き流してはならないと思います。言葉を変えれば、この言葉は「この人の傷が完全に癒されるまでに必要なすべての代価は、私が払います。」と言っているのです。「もし更に費用がかかったら、私が帰ってくる時に、私が払おう」と言っているのです。「この人の傷は(罪は)、私が完全に贖おう」だからこの人の世話をお願いします。そして古来この宿屋は教会と理解され、「私が帰ってくるときに」というのは、キリストの再臨と理解されてきました。



私達は現実には罪人であり、罪人以外の何物でもありません。しかしこの言葉「この人の傷が完全に癒されるまでに必要なすべての代価は、私が払います。」「もし更に費用がかかったら、私が帰ってくる時に、私が払おう[17]」という言葉に希望を置く限り、現実には満身創痍で宿屋のベッドに横たわっている者ではあっても、確かな平安のうちに安らぐことが出来るのではないでしょうか。私達の信仰の確かさは、この約束の確かさにあるのです。永遠の命は無代価で、無償で、ちょうどクリスマスの夜にすやすやと眠る子供たちの枕元に、サンタクロースがそっとプレゼントを置いていくように、この旅人の枕元に置かれたのです。よきサマリア人のお話は、永遠の命が律法の専門家の問いのように何かをして獲得されるものではなく、すべての人に差し出されているというのです。神の子が既にその土台[18]を十字架の下に据えてくださったのです。



 



ヨハネ黙示録3:20に「見よ、私は戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。私達がキリストのもとへ行き、扉をたたくなら入れてもらえる、ではないのです。キリストが我々の心の扉をたたき、我々が心の扉を開くと、キリストが中に入り来たり、共に食事をするというのです。我々が苦行、修行を経て悟りに到達するというのではなく、放蕩息子の父親が息子の帰りを今か今かと待ちかねていたように、キリストは待ちかねているというのです。



 



「私は平安をあなた方に残していく。私の平安をあなた方に与える。私が与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。『私は去っていくが、またあなたがたのところに帰って来る。[19]』と、私が言ったのを、あなた方は聞いている。もし私を愛しているなら、私が父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。[20]」(口語訳)



 



ここで言う平安というのは四海波穏やかな状態では必ずしもなく、大波が頭上を越えて行く時も、主に結ばれて平安なりと言っているのです。「いつも喜んでいなさい」とは、こういう信仰に支えられた平安であり、喜びなのです。傷つき倒れている旅人には、何の功(いさおし)もないのです。「しかし働きはなくても、不信人な者(罪人)を義とみなされる方を信じる人は、その信仰が義とみとめられるのです。不法をゆるされ、罪を覆われた人たちは、さいわいである。罪を主に認められない人は、さいわいである。」「罪を主に認められない人は幸いである。[21]」(口語訳)とは、現実には不法を行う者であり、罪を犯す者ではあっても、その不法が、罪がキリストのものとなり、キリストの義の衣をもって覆われていることを信じる者達のことなのです。あの(十字架の)呪いがキリストの全体を呑み込んだのではなく、むしろ、呪いが呑み込まれたことを、ユダヤ人達は理解しなかったのです[22]。イエスの問い返しの主眼点は、その律法に書かれていることをあなたはそれをどう読むかということだったのですが、そこまでは律法の専門家の考えは及ばなかったようです。そしてサマリア人の譬は私達に、その答えを提供してくれているのだと思います。



 



ところでそもそもこのお話は、律法の専門家の「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という質問から始まりました。主イエスの「律法には何と書いてあるか、またあなたはそれをどう読むか」という問い返しに、彼は心を尽くし、精神を尽くし・・・、あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい。と答えました。それに対してイエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」、と答えたのではなかったでしょうか。それなのに、神は働きがなくても、不信人な者を義と認められる、不法がゆるされ、罪が覆われた者は幸いである、という。前回学んだローマ書3章「20.なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。23.人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24.ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」ということと明らかに矛盾しています。律法の専門家が答えた律法を「それを実行しなさい、そうすれば命が得られる」、とは「主イエスの皮肉であり、真面目なイエスの様の御教えではない」と榊原康夫牧師はルカ福音書講解第3P.501で指摘しています。律法を為すことによっては誰も、神の義に到達することはできないのです。律法を実行することによっては、罪の自覚しか生じないのですが、それにしても律法の専門家は、律法を熟知しながら、まったく罪の自覚がしょうじていないということは驚くべきことです。律法は霊的なものであり、心の底を求める、ということに気づいていませんでした。この律法の字義的解釈が主イエスを十字架へと追いつめていったのです。



 



最後の「あなたも行って同じようにしなさい。」という言葉は、命令法で書かれています。私はこの言葉を命令ではなく、励ましの言葉として受け止めたいと思います。命令法は依頼や願いも表します。このサマリア人が主イエスで旅人が私であるなら、主イエスは私があなたの隣人になったのだから、あなたも同じように今あなたの助けを必要としている人の隣人になってくれないか。是非そうしてもらいたいのだが、と読むことも可能です。私達は福音から律法をつくりだすことがないように気を付けなければなりません。



 



最後にそれでは私はいったい祭司・レビ人なのか、それともサマリア人なのか。皆様はどちらでしょうか。私はどちらかというとこの旅人に寄り得なかったかもしれない、と思うのです。むしろ、祭司・レビ人の方であったかもしれない。しかし今日のメッセージに励まされ、私もまた主イエスの万分の一にならって、いと小さき者に、いと小さきことをなす者でありたいと願う者です。自分を必要としている人の隣人になりたいものだ、是非そうしたいものだと思う者です。



 



それでも私達が助けを必要としている人の隣人になり得ない時のために、昭島教会ではサマリア基金を創設致しました。様々な事情で困難に直面した人を支援するための基金です。運用は牧師と役員が担当し、支援を受ける人の氏名は伏せられ、返済義務等はありません。返済はその方の経済的困窮がなくなった時、この基金へ感謝の献金をして頂くということになります。皆様のすこしずつの献金が、この旅人を再起させる力となります。ご協力をお願い致します。



 



「隣人のために存在する時、教会は初めて教会となる。」とはボンヘッファーの言葉です。使徒ペテロに「私の羊を飼いなさい」と言われたように、教会は主イエスから、この旅人の介抱を託されています。



 



宗教改革者ルターは1526年のこのテキストの説教の中で、この旅人の姿に義とされつつある罪人、現実には罪人でありながら、希望において義とされているキリスト者の姿を見ています。有名な「キリスト者は罪人であり、同時に義人である」というルターの義認論の基を見ています。



 



ルターのローマ書4:7講解からサマリア人の譬に関係する部分をご紹介致します。「以上のこと(すなわち我らは罪の中にいるが神は必ず我らを自由にしたもうこと)は次のような病人の場合に似ている。すなわちこの病人は最も確かな治癒を約束する医者を信じ、また約束された治癒を望んで神の戒めに従う一方、この医者が約束したことを果たすまで、約束された治癒を妨げないように、病気を悪化させないように、医者に禁じられたことから遠ざかる人である。いったい、この病人は癒されているのだろうか。いや、むしろ病人であると同時に健康なのである。彼は事実病人であるが、医者の確実な約束のゆえに健康である。医者が病人を癒すことは確実であるから、病人は、今や、彼をあたかも健康な者とみなす医者を信じている。なぜなら、医者は病人をすでに癒し始めており、死に至る病を病人に帰してはいないからである。善きサマリヤ人であられる我らのキリストは、同じ方法で半死半生の人間を、看護を要する彼の病人として宿屋に連れて行き、死に至る罪すなわち欲性(concupiscentia[23])を彼に帰せず、むしろその間に約束された治癒を望む希望において、この治癒が妨げられたり、また、罪すなわち欲性が増大するようなことを行ったり、行わないことを禁じながら、永遠の命に至る最も完全な治癒を約束して癒すことを始められるのである。それなら彼は完全に義人であるのか。そうではない。むしろ彼は同時に罪人であり、義人なのである。彼はまことに罪人であるが、彼を罪から解放し、最後に完全に彼を癒す神の認定(reputatione)と神の確かな約束によって義人なのである。(WA.56.272)」。またこうも言っている「だから、我らを同時に罪人、また罪なき者とみなしたもう神の憐みは驚くべきもの、いとも甘きものである。(ibid.270[24]」。



「なぜなら、罪は、もはや、あなた方を支配することはないからです。あなた方は律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。[25]













[1] 「受け継ぐ」と訳されている言葉は、自分のものとするという意味もあります。同じような質問が以下の箇所にも、少しずつニュアンスを変えて出てきています。マタイ19:16~22、マルコ10:17~31、ルカ18:18~30







[2] ユダヤ人ならだれでも知っているシェマの祈りに出てくる一節です。シェマ イスラエル(聞け イスラエルよ)で始まるので、シェマの祈りと言われています。







[3] レビ記19:17~18「民の人々(あなたの国の人々)に恨みを抱いてはならない。自分自身のように隣人を愛しなさい。」







[4]29節「すると彼は自分の立場を弁護しようと思って」(口語訳)







[5] P.116~117







[6] ルカ福音書9:51~56







[7] ヨハネ福音書4:9







[8] ヨハネ福音書8:48







[9] アッシリアの首都はニネベです。預言者ヨナが神から宣教に向かえと言われたチグリス河流域の都市。しかしヨナはヤッファから海路正反対の西の果てタルシシュへ向かったのです。







[10] エズラ記1章







[11] エズラ記10章







[12] エズラ記4:1~5







[13] 紀元前358年~323年、哲学者であり、科学者でもあったアリストテレスの教えを受けていた。



「伝説によれば、アレクサンダーは神殿から祭司が行進してくる姿にひじょうに心うたれ、エルサレムを破壊しなかったのだという。彼はまたユダヤ人が特別の習慣に従うことをゆるした。」聖書の歴史 サムエル・テリエン著 創元社 P.53~54



 







[14] 出エジプト記32:19~29、歴代誌15:1~2







[15] 物語全体からユダヤ人と推定される。







[16] ガリラヤのカナでの婚礼の記事の中に、「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。」(ヨハネ福音書2:6)という言葉を思い出して下さい。日本にも「清めの塩」なる







[17] ここは協調構文で書かれています。Αποδωσω(アポドウソウ 私が支払おう[直接法未来) σοι(ソイ あなたに)このΑποδωσωという動詞には「私が」という主語が含まれているので、通常人称代名詞は必要ありません。しかし、ここではεγω(エゴー 私が)という人称代名詞が別に添えられています。これは「他ならぬこの私が、」とか「私こそが」という力点が、この主語に置かれていることを示しています。「私は良い羊飼いである」とか「私はよみがえりであり、命である」という聞きなれた言葉も、協調構文で書かれています。







[18] 第1コリント3:11「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」







[19] 「私が言ったのを、あなた方は聞いている」というのは、以下の箇所のことです。ヨハネ福音書14:2・3「私の父の家には、住まいがたくさんある。もしなかったならば、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたを私のところに迎えよう。私のおる所にあなたがたもおらせるためである。」(口語訳)14:18「私はあなたがたを捨てて、孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」(口語訳)新共同訳は「孤児」を「みなしご」と訳しています。







[20] ヨハネ福音書14:27~28(新共同訳は「平和」と訳しています)







[21] ローマ人への手紙4:5~8







[22] 「世界の名著 ルター」P.400 詩編講義69:5







[23] Concupiscentia(コンクピスケンチア ラテン語の読み方はローマ字読みです) reputatione はラテン語です。この文章の訳者でもある笠利尚先生は、キリスト教のお話 第三集P.58~59で次のように解説しています。「欲性」と訳した原語は concupiscentia です。この語は元来人間の欲情とか情欲と訳され、伝統的にもこの意味で用いられました。しかし、ルターはこれに新しく深い内容を与えています。彼はこの語のなかに人間を縛り上げ、突き動かす自己追及の力を見ております。人間はすべてを用い、神をさえ利用して自分自身を求めると言うのです。彼は『欲性とは原罪である』とも述べています。また彼は、律法を実行する facere ことと完全に実行する perficere ことを区別します。実行するとは、わざによって、額にしわをよせて精進し、罰を恐れたり報奨目当てに律法を行うこと。完全に実行するとは、律法のわざを喜び勇んで、自発的に行うことです。これは律法から自由でなければできません。この自由は神の恵みを信仰によって受け入れる所に生まれるのです。







[24] 「聖書解釈の歴史」出村彰、宮谷宣史編 ルター派の聖書解釈 改革者ルターを中心として 笠利尚 P318~319



Igitur(従って) mirabilis(驚くべきこと)et(そして) dulcissima(極めて甘きこと) misericordia Dei(神の憐みは),qui (神は)nos(我らを) simul(同時に) peccatores(罪人) et(そして) non-peccatores(罪なき者) habet(とみなしたもう)。



 







[25] ローマ人への手紙3:14