2021年3月28日日曜日

十字架への道(2021年3月28日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232番地13)


讃美歌21 298番 ああ主は誰(た)がため 奏楽・長井志保乃さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます

宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます

「十字架への道」

マタイによる福音書27章32~56節

関口 康

「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った。

今日の聖書の箇所に記されているのは、イエス・キリストが十字架上で処刑される場面です。想像するだけで体と心が凍ります。もっとも、書かれていること以上は分かりませんので、これから申し上げることの多くは私の想像です。

兵士たちがシモンという名のキレネ人にイエスの十字架を無理に担がせたとあるのは、その前にイエスさまが鞭で打たれたり葦の棒で頭を叩き続けられたりしていたために、重い十字架の木材を背負って歩くのが難しくなっていたからではないでしょうか。つまり、もう歩けなくなっているイエスさまを無理に歩かせるためです。イエスさまを助けたがっているわけではありません。

処刑場についたときに彼らがイエスさまに苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたのは、麻酔的な意味があったでしょう。アルコールの摂取が痛みの緩和になるかどうかは分かりません。しかしイエスさまはそれを拒否されました。すべての痛みをお引き受けになるためだったと解釈されることがありますが、それすら想像の域を超えません。

「彼らはイエスを十字架につけると」と淡々と事実だけが記されています。現代の作家のような人たちなら、もっと詳しく細かく描こうとするのではないでしょうか。イエスさまの手や足に釘を打つ槌音、痛みに悶えるイエスさまの表情や絶叫。そのようなことは一切記されていません。音も声も聞こえてこない、まるで一枚の絵画や写真を見ているかのようです。

しかしその一方で今日の箇所にしきりと描かれているのは、十字架につけられたイエスさまの周りにいる人たちの言葉や態度や表情です。イエスさまご自身が苦しくないはずがないのですが、そのことは描かれず、代わりにイエスさまの周りの人たちの様子が多く描かれています。

兵士たちがくじを引いてイエスさまの服を分け合う様子にしても、十字架につけられたイエスさまの頭の上に「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げる様子にしても、彼らが楽しそうに遊んでいたことを物語っています。すべて揶揄いであり、罵りです。

通りがかりの人たちのことも「頭をふりながらイエスをののしって言った」と記されています。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と言う。「できないことをできるかのように言ったお前の恥を知れ」とでも言いそうです。

通りがかりの人たちは何を言っても構わないという意味ではありませんが、同じように祭司長たちが律法学者や長老たちと一緒にイエスさまを侮辱しているのは、いただけません。特にその人たちが「他人は救ったのに、自分は救えない」と言う。これはまずいです。

祭司長と律法学者と長老の共通点は、当時のユダヤ教団の指導者たちだったことです。宗教の責任者たちです。宗教が人を救うのかどうかは分かりませんというようなことを、私が言うべきではないかもしれません。しかし、ここに書いてあるとおりならば、彼らはイエスさまが他人を救ったことを認めています。彼らこそが本来なら人を救う働きをもっとしなければならなかったはずなのに、自分たちにできなかったことをイエスさまがしたことを、彼ら自身が認めています。

いや、認めているわけではない、「他人は救った」と彼らが言っているのは「自分は救えない」のほうを言いたいがための枕詞であるという読み方がありうるかもしれません。しかしとにかく彼らは、イエスさまが「他人を救った」と言いました。そうであるならば、宗教の責任者たちはイエスさまの功労をねぎらうべきではないでしょうか。侮辱ではなく。それができないのです。

そしてついにイエスさまが息を引き取る場面が描かれます。そのときには、イエスさまは大声で叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言われました。「痛いです」でも「苦しいです」でも「悲しいです」でもありません。神さまがわたしをお見捨てになった、それはどうしてですか、と言われました。

なぜイエスさまがそうおっしゃったのか、その意味は何かについては、もちろん完全に謎です。世界のだれひとり正解を知る人はいません。ただ、私が今日の箇所を改めて読みながら思うのは、イエスさまのこの絶望の叫びは、イエスさまご自身が十字架につけられたことを痛いとか苦しいとか悲しいとかいうことに対する絶望ではなく、宣教活動をどれほど行っても人間の態度が少しも改まらないことへの絶望のお気持ちだったのではないだろうか、ということです。

なぜそう思うのかの理由を申し上げる必要があるでしょう。それが先ほど申し上げたことです。この箇所にはイエスさまの表情がほとんど全く描かれていないのに対して、十字架につけられたイエスさまの周りにいた人たちの表情がしきりと描かれている、ということです。

言い方を換えれば、この箇所はイエスさまの側からイエスさまの周りの人たちの姿とその態度を見る、その目線で書かれているように読める、ということです。マタイはイエスさまではありませんので、実際にそうすることは不可能です。しかし、イエスさまの立場・イエスさまの目線で、人間の姿を見ようとすることは可能です。

そしてそれはマタイだけでなく、他の福音書記者だけでなく、わたしたちにも可能です。教会生活を長く続けてきた人たちや、牧師としての働きを長く続けてきた人たちがしょっちゅう絶望の言葉を口にするのを実際に聞きます。これほど苦労して教会生活を続け、あるいは牧師としての働きを続けてきたのに、世界は変わらない。ますます悪くなっている。どうなっているのかと。

しかし、「それでいいのだ」と思うことにしましょう、というのが今日の私の結論です。世界は立ちどころに変わったりはしません。人の心は私たちの思いどおりになりません。苦労して苦労して、苦しんで悩んで、繰り返し絶望しながら教会生活を続け、宣教を続けていく中で、世界は徐々に変わっていくでしょう。そう信じましょう。イエスさまが、何を言っても何をしても絶望的に変わらない人たちを十字架の上から見つめておられたように。しかしイエスさまの死と復活から2千年後の今は、当時と全く同じではありません。少しぐらいは変わったでしょう。

イエスさまが息を引き取られたとき神殿の垂れ幕が裂け、地震が起こり、墓が開いて多くの人が生き返るというようなとんでもない天変地異があり、それを見た人々が「本当にこの人は神の子だった」と言ったということが記されていますが、彼らこそ世界で初めて信仰告白した人々であると言えるかどうかは微妙です。そのときはそう思ったかもしれません。しかし「喉元過ぎれば熱さ忘れる」のも「熱しやすいが冷めやすい」のも人間です。天変地異ごときで世界が変わるなら、だれも苦労しません。人の心が変わるのは、息の長い宣教によるほかはないのです。

「教会やめたい。牧師やめたい」と思うときには、今日の箇所を思い起こしましょう。イエスさまが苦しまれたことを心に刻みましょう。イエスさまは救い主です。しかし宣教の苦労の先輩でもあります。宣教に絶望するたびに「うんうん分かる分かる」とうなずいてくださるでしょう。

(2021年3月28日 日本キリスト教団昭島教会 主日礼拝)

十字架への道(2021年3月28日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232番地13)

讃美歌21 298番 ああ主は誰(た)がため 奏楽・長井志保乃さん

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「十字架への道」

マタイによる福音書27章32~56節

関口 康

「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った。

今日の聖書の箇所に記されているのは、イエス・キリストが十字架上で処刑される場面です。想像するだけで体と心が凍ります。もっとも、書かれていること以上は分かりませんので、これから申し上げることの多くは私の想像です。

兵士たちがシモンという名のキレネ人にイエスの十字架を無理に担がせたとあるのは、その前にイエスさまが鞭で打たれたり葦の棒で頭を叩き続けられたりしていたために、重い十字架の木材を背負って歩くのが難しくなっていたからではないでしょうか。つまり、もう歩けなくなっているイエスさまを無理に歩かせるためです。イエスさまを助けたがっているわけではありません。

処刑場についたときに彼らがイエスさまに苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたのは、麻酔的な意味があったでしょう。アルコールの摂取が痛みの緩和になるかどうかは分かりません。しかしイエスさまはそれを拒否されました。すべての痛みをお引き受けになるためだったと解釈されることがありますが、それすら想像の域を超えません。

「彼らはイエスを十字架につけると」と淡々と事実だけが記されています。現代の作家のような人たちなら、もっと詳しく細かく描こうとするのではないでしょうか。イエスさまの手や足に釘を打つ槌音、痛みに悶えるイエスさまの表情や絶叫。そのようなことは一切記されていません。音も声も聞こえてこない、まるで一枚の絵画や写真を見ているかのようです。

しかしその一方で今日の箇所にしきりと描かれているのは、十字架につけられたイエスさまの周りにいる人たちの言葉や態度や表情です。イエスさまご自身が苦しくないはずがないのですが、そのことは描かれず、代わりにイエスさまの周りの人たちの様子が多く描かれています。

兵士たちがくじを引いてイエスさまの服を分け合う様子にしても、十字架につけられたイエスさまの頭の上に「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げる様子にしても、彼らが楽しそうに遊んでいたことを物語っています。すべて揶揄いであり、罵りです。

通りがかりの人たちのことも「頭をふりながらイエスをののしって言った」と記されています。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と言う。「できないことをできるかのように言ったお前の恥を知れ」とでも言いそうです。

通りがかりの人たちは何を言っても構わないという意味ではありませんが、同じように祭司長たちが律法学者や長老たちと一緒にイエスさまを侮辱しているのは、いただけません。特にその人たちが「他人は救ったのに、自分は救えない」と言う。これはまずいです。

祭司長と律法学者と長老の共通点は、当時のユダヤ教団の指導者たちだったことです。宗教の責任者たちです。宗教が人を救うのかどうかは分かりませんというようなことを、私が言うべきではないかもしれません。しかし、ここに書いてあるとおりならば、彼らはイエスさまが他人を救ったことを認めています。彼らこそが本来なら人を救う働きをもっとしなければならなかったはずなのに、自分たちにできなかったことをイエスさまがしたことを、彼ら自身が認めています。

いや、認めているわけではない、「他人は救った」と彼らが言っているのは「自分は救えない」のほうを言いたいがための枕詞であるという読み方がありうるかもしれません。しかしとにかく彼らは、イエスさまが「他人を救った」と言いました。そうであるならば、宗教の責任者たちはイエスさまの功労をねぎらうべきではないでしょうか。侮辱ではなく。それができないのです。

そしてついにイエスさまが息を引き取る場面が描かれます。そのときには、イエスさまは大声で叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言われました。「痛いです」でも「苦しいです」でも「悲しいです」でもありません。神さまがわたしをお見捨てになった、それはどうしてですか、と言われました。

なぜイエスさまがそうおっしゃったのか、その意味は何かについては、もちろん完全に謎です。世界のだれひとり正解を知る人はいません。ただ、私が今日の箇所を改めて読みながら思うのは、イエスさまのこの絶望の叫びは、イエスさまご自身が十字架につけられたことを痛いとか苦しいとか悲しいとかいうことに対する絶望ではなく、宣教活動をどれほど行っても人間の態度が少しも改まらないことへの絶望のお気持ちだったのではないだろうか、ということです。

なぜそう思うのかの理由を申し上げる必要があるでしょう。それが先ほど申し上げたことです。この箇所にはイエスさまの表情がほとんど全く描かれていないのに対して、十字架につけられたイエスさまの周りにいた人たちの表情がしきりと描かれている、ということです。

言い方を換えれば、この箇所はイエスさまの側からイエスさまの周りの人たちの姿とその態度を見る、その目線で書かれているように読める、ということです。マタイはイエスさまではありませんので、実際にそうすることは不可能です。しかし、イエスさまの立場・イエスさまの目線で、人間の姿を見ようとすることは可能です。

そしてそれはマタイだけでなく、他の福音書記者だけでなく、わたしたちにも可能です。教会生活を長く続けてきた人たちや、牧師としての働きを長く続けてきた人たちがしょっちゅう絶望の言葉を口にするのを実際に聞きます。これほど苦労して教会生活を続け、あるいは牧師としての働きを続けてきたのに、世界は変わらない。ますます悪くなっている。どうなっているのかと。

しかし、「それでいいのだ」と思うことにしましょう、というのが今日の私の結論です。世界は立ちどころに変わったりはしません。人の心は私たちの思いどおりになりません。苦労して苦労して、苦しんで悩んで、繰り返し絶望しながら教会生活を続け、宣教を続けていく中で、世界は徐々に変わっていくでしょう。そう信じましょう。イエスさまが、何を言っても何をしても絶望的に変わらない人たちを十字架の上から見つめておられたように。しかしイエスさまの死と復活から2千年後の今は、当時と全く同じではありません。少しぐらいは変わったでしょう。

イエスさまが息を引き取られたとき神殿の垂れ幕が裂け、地震が起こり、墓が開いて多くの人が生き返るというようなとんでもない天変地異があり、それを見た人々が「本当にこの人は神の子だった」と言ったということが記されていますが、彼らこそ世界で初めて信仰告白した人々であると言えるかどうかは微妙です。そのときはそう思ったかもしれません。しかし「喉元過ぎれば熱さ忘れる」のも「熱しやすいが冷めやすい」のも人間です。天変地異ごときで世界が変わるなら、だれも苦労しません。人の心が変わるのは、息の長い宣教によるほかはないのです。

「教会やめたい。牧師やめたい」と思うときには、今日の箇所を思い起こしましょう。イエスさまが苦しまれたことを心に刻みましょう。イエスさまは救い主です。しかし宣教の苦労の先輩でもあります。宣教に絶望するたびに「うんうん分かる分かる」とうなずいてくださるでしょう。

(2021年3月28日 日本キリスト教団昭島教会 主日礼拝)

2021年3月27日土曜日

「ユー・レイズ・ミー・アップ(You Raise Me Up)」動画作成・冨栄徳さん

富栄徳さんが「ユー・レイズ・ミー・アップ(You Raise Me Up)」の動画を作ってくださいました。「この20日に御許に召されたK姉に謹んでお捧げします。この曲を病床で最期まで愛聴されていたそうです。聴くほどに心が洗われる美しい曲です。歌詞を味わえば、この曲は、まさにイエス様を謳っていると思います」(富栄さん)。ありがとうございます!

2021年3月21日日曜日

十字架の勝利(2021年3月21日 主日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232番地13)

  
讃美歌21 306番 あなたもそこにいたのか 奏楽・長井志保乃さん

「十字架の勝利」

マタイによる福音書20章20~28節

関口 康

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」

今日の礼拝後、2020年度第2回教会定期総会を行います。教会総会のたびに申し上げていることを繰り返します。教会のすべての会議は礼拝をもって始められるべきです。しかし、教会総会を日曜日に行う場合は、主日公同礼拝を教会総会の「開会礼拝」とみなすことが可能です。

今日行う教会総会の議題は2つです。役員改選の件と、新年度教職体制の件です。「その他」と記しましたが、教会総会議員である教会員の側から今日の教会総会で扱うべき議案があるという提案がなされた場合に、それを議事にすることができるという意味です。ただし、それは教会総会の開会宣言の後に行う議案確定のとき提案された場合に限ります。次から次へと思いつきの提案が後から出されても議事として取り扱うことはできません。そのことはご承知置きください。

議事の内容を先取りするようなことを、いま申し上げるつもりはありません。具体的なこと、実際的なことについては、教会総会の中で共に考えるべきことです。それよりもいま申し上げておくべきことは、根本的なこと、本質的なことです。教会役員とは何か、教会の教職と呼ばれる牧師とは何かということです。そしてこの2つの問いに集約されるのは、そもそも教会とは何かという、より大きな問いです。そういうことをあらかじめ考えたうえで、先ほど申し上げた2つの議題を取り扱う今日の教会総会に臨むべきです。

しかし、これから私が「教会論」をお話ししようとしているわけではありません。「教会役員論」でも「牧師論」でもありません。乱暴な言い方をお許しいただけば、そんなことはどうでもいいです。大切なのは神さまとの関係です。神さまの前でわたしたちひとりひとりがどのように考え、語り、行動するかです。

今日の聖書の箇所はいつものとおり教団の聖書日課を参考にして選んだものですが、今日こそわたしたちが考えるべき最も大切なテーマが記されているということを深く感じました。神さまがわたしたちに「今日この言葉を聞きなさい」と呼びかけておられます。そのように感じました。

ゼベダイの息子たちの母が、その2人の息子と一緒にイエスのところに来てひれ伏してお願いしようとしたというのです。「ゼベダイ」と「2人の息子」は、いま開いているマタイによる福音書の4章21節に登場します。それはイエスさまが宣教活動の初めにまず4人の弟子をお選びになる場面です。「ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ」(4章18節)、そして「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」(4章21節)です。4人とも漁師でした。

ですから今日の箇所の「ゼベダイの息子たちの母」(20節)は漁師ゼベダイの妻であり、「2人の息子」(同節)はヤコブとヨハネです。そのゼベダイの妻であり、ヤコブとヨハネの母である人がイエスさまのところに来てお願いしました。

お願いの内容は要するに、イエスさまが国王になられたときに、うちの息子たちをあなたの右と左に座らせると約束してほしいということでした。ぴったりとは当てはまりませんが、イエスさまの学校に大切な子どもを2人も入学させた親が「うちの子に最優秀の成績をつけてください」とお願いしているようなものだと考えれば、少し分かりやすくなるかもしれません。

「了解しました」とイエスさまはお答えになりませんでした。そうではなく「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」(22節)とお答えになりました。このイエスさまのお答えが「当然だ」と思われる方と「厳しすぎる」と思われる方とに分かれるかもしれません。それは《イエスさまの立場》に立って考えるか《親の立場》に立って考えるかによるでしょう。

《親の立場》を先に考えてみます。ゼベダイの妻でありヤコブとヨハネの母の立場としては、自分のお腹を痛めて産み、心血を注いで育てた子どもたちが2人もイエスさまに取り上げられたという気持ちだったかもしれません。「こんなとんでもないことになったのは、ある意味でイエスさま、あなたのせいです。私の命に代えても惜しくない子どもをあなたに差し上げたのだから、その代価を払ってほしい」と言いたい気持ちがあったかもしれません。

しかしイエスさまはその願いを突き放されます。そして「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」(22節)と言われます。その「杯」の中身が直前の箇所に記されています。イエスさまが12人の弟子を呼び寄せておっしゃったことです。「今、わたしたちはエルサレムへ上っていく。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである」(20章17~19節)。

これはイエスさまのことです。私はこれから死刑を受ける。その前に屈辱を受ける。そのためにエルサレムに向かっているとおっしゃっているわけです。そういうことをあなたがたは堪えられるか、耐えられないだろうと問われているのが「杯を飲むことができるか」の意味です。

すると、ヤコブとヨハネは口を揃えて「できます」と答えます。実際にはできないのですが。できなくてもいいのですが。十字架の苦しみはイエスさまがおひとりで背負われました。しかし、できなくてもいいし、事実としてできなかったことを「できます」と言ってしまうのが、愚かと言えば愚か。浅はかと言えば浅はか。弱さと罪をまとうわたしたち人間の姿そのものでしょう。

いま申し上げている問題は大切です。しかしそれ以上に大切な問題があります。それはイエスさまの弟子であることの意味は何なのかという問題です。

その答えは、彼らが考えたように「(1)イエスさまのように偉くなるために上に向かう階段を昇っていくこと」ではありません(×)。正解は「(2)イエスさまのように屈辱を受けるために下に向かう階段を降りていくこと」(〇)です。イエスさまのように徹底的にへりくだることです。

「それをめざしている者は、わたしの弟子である」とイエスさまは必ずおっしゃってくださると思います。「それができない人は、わたしの弟子ではない」とイエスさまがお退けになるようなことはなさらないと思います。しかし「わたしが向かっている方向とは正反対である」ということはおっしゃるのではないかと思います。もし、その方向を「めざして」いないとすれば。

そのことを端的にはっきりおっしゃっているのが26節以下の次の言葉です。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」。

これはわたしたちが文字通りに実行すべきことです。「皆に仕える者になるどころか、すべての人を上から見下げて虚勢を張りたがる弱さと罪を持つわたしたちの代わりにイエスさまが死んでくださいましたが、わたしたちはいつまでも傲慢なままです」と言って済ますことはできません。イエスさまから「あなたがたは自分が何を願っているか分かっていない」と言われるでしょう。

(2021年3月21日)

2021年3月20日土曜日

ショパン「別れの曲」&同名映画予告編 冨栄徳さん演奏

富栄徳さんがショパン「別れの曲」を演奏してくださいました。「別れと出会いの季節にふさわしい曲です。全部は難しいので、出来るところのみの演奏で」とのこと。冨栄さん、ありがとうございます!

 

ショパン「別れの曲」&同名映画予告編 冨栄徳さん演奏

富栄徳さんがショパン「別れの曲」を演奏してくださいました。「別れと出会いの季節にふさわしい曲です。全部は難しいので、出来るところのみの演奏で」とのこと。冨栄さん、ありがとうございます!

 

2021年3月14日日曜日

主の変容(2021年3月14日 自宅・礼拝堂礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市)

讃美歌21 311番 血潮したたる 奏楽・長井志保乃さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます

週報(第3559号)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます

マタイによる福音書17章1~13節

関口 康

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」

おはようございます。礼拝堂を開放しての礼拝を再開して3週目です。1都3県に対する政府の緊急事態宣言は、現時点の説明では来週日曜日まで続くようです。

しかしまた、たとえば私は今ほぼ毎日のように、電車やバスに乗って遠くの学校まで出かけ、外出先で食事をしています。対策をとっているかぎりはふだんと全く変わりません。それで怖いと私はもう思いません。

怖がる理由、外出しない理由、人と会わない理由を探し始めれば、事欠くことはありません。しかし、テレビや新聞の情報がすべてではありません。私が何を言おうと、誰の何の参考になるとも思いません。しかし、東京や神奈川の中心部分の状況を、自分の体と目で確かめています。

今の日本の政治を司る人々がもっと信頼できる人たちであれば、あの人々の言うとおりに動くことはやぶさかではありません。しかしそれが難しい状況です。これ以上は言わないでおきます。礼拝堂を閉鎖し続ける理由はもうないと私個人は考えています。

いま申し上げたことと、今日の聖書の箇所とが直接関係あるわけではありません。無理に関係づけたいとも思いません。しかし、この箇所に何が描かれているのか、聖書が何を言おうとしているのかを考えると、あながち全く無関係とも言いがたいところがあることをご理解いただけるのではないかと思えてきます。

イエスさまが、12人の弟子のうちの3人を特別にお選びになって、高い山に登られたというのです。その3人の弟子は、ペトロとヤコブとヨハネでした。「山頂で」とは書かれていませんが、登山の目的地が頂上でないということがありうるでしょうか。おそらく山頂かその付近でのことではないかと思われます。イエスさまのお姿が変わった、というのです。「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(2節)。

姿が変わるというのは、何か違うものに化けることを言うのかもしれません。イエスさまが何か別の存在へとお化けになられたのかどうかは分かりません。山に登って、頂上付近で、太陽の光に照らされて、顔と服が輝いたというような話かどうかも分かりません。

もし何か途轍もないことが起こったのだとしても、それを目撃したのは、この箇所に書かれているとおりに考えれば、ペトロとヤコブとヨハネの3人だけです。この3人が何を見たのか、あるいは何を感じたのか。そのことをわたしたちは、今日の箇所を読んで想像するしかありません。

続きを読みます。高い山でイエスさまのお姿が変わりました。そして、そのイエスさまの前にモーセとエリヤが現れ、その3人の語り合いが始まったというのです。

モーセは紀元前13世紀の人です。イスラエル人を、彼らが奴隷状態にされていたエジプトから脱出させ、約束の地カナンまで連れて行った人です。そしてその旅の途中で「モーセの十戒」を定めたことで知られます。エリヤは紀元前9世紀の人です。イスラエル王国が南北に分裂した後の時代の北王国の預言者で、バアルと呼ばれる異教の神を信じる人たちと対決しました。

その人たちがイエスさまの前に現れた、というわけです。ですから、こういう話というのは、どうしてこういうことが起こりえようか、科学的にありえない、というふうにたとえば反応するのは、そもそも聖書の読み方自体を間違えているとしか言いようがないです。

このように言えばおそらく皆さんにご納得いただけるでありましょう範囲内の言葉で言い換えれば、高い山の上で、ペトロとヤコブとヨハネが見ていたのは、イエスさまがモーセやエリヤについて熱を込めて説教なさるお姿だったのではないかということです。

モーセとエリヤの共通点を強いて言うとすれば、今のわたしたちが「旧約聖書」と呼ぶ39巻の書物の中で最も有名な人たちであるということでしょう。イスラエル人を危機の中から助け出す働きをしたという意味で、イスラエルの人々にとっての国民的英雄として知られている存在です。

その人々のことをイエスさまが、弟子たちに熱を込めてお話しになったのではないでしょうか。イエスさまはモーセとも語り合い、エリヤとも語り合い、そしてその語り合いの中に弟子たちを招き入れられたのではないでしょうか。

「ペトロが口をはさんでイエスに言った」(4節)と記されています。「口をはさむ」と言うと、まるでペトロが邪魔しているかのようです。

イエスさまは何も、弟子たちを放ったらかしにして、モーセとエリヤとの語り合いだけに夢中になっておられたわけではないでしょう。そういうのは礼拝に集まっている人たちの心に届かなくてもお構いなしの、まるで独り言のような説教をしているのと同じでしょう。

説教をさえぎって何かを言えば「私語を慎んでください」と注意されるかもしれませんが、説教者と会衆が対話の関係になることが間違っているとは言えないでしょう。

脱線しかかっているので、話を元に戻します。ペトロがイエスさまにひとつの提案をしました。その内容をかいつまんで言えば、せっかく素晴らしい方々がお集まりなので、お3人のために、わたしがここに仮小屋を3つ建てさせていただきますが、いかがでしょうか、ということです。

そうすれば、いつまでも、何日でも、じっくりお話しできるでしょうというような意味かもしれません。やっぱりちょっと余計なことを言っているようでもあります。こういうことをもし本当にペトロが言ったのだとすれば、口が過ぎる感じがないわけではありません。

しかしまた、ペトロが言っていることをもう少し厳しく考えると、ただ口が過ぎるというだけではなく、事柄のとらえ方に間違いがあるとも思えてきます。それは、ペトロが、イエスさまとモーセとエリヤのために「仮小屋を3つ建てる」と言っているところです。

つまり、ペトロは、3者を同格に見ています。ペトロの側からすれば、イエスさまを信じているけれども、モーセもエリヤもイエスさまと同じ意味で信じている、信頼している、という意味を持ち始めるでしょう。

しかし、ペトロがそう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆い、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」という声が聞こえ、彼らが目を上げると、モーセもエリヤもいなくなって、イエスさまだけが残っていたというのです。つまり、イエスさまの弟子はイエスさまの言葉に従って生きなさいと、彼らに明確な示しがあった、ということです。

このように考えると今日の箇所全体のテーマが分かってきます。イエスさまの弟子は誰に従うのか、です。イエス・キリストの教会は、イエス・キリストの言葉に従うのです。

現代の教会においては、全く通用しない話でしょうか。医学と科学と世論に従うだけならば、宗教は不要でしょう。そう思っている人たちは、もはや教会に足を向けることはないでしょう。

しかし、それでは済まないと思っている人たちが、教会に集まるのです。私もそうです。教会でなければならない意味があると思っているので、牧師を続けています。

すべての判断は各自に任されています。強制はありえません。それぞれ自分の確信に基づいて生きるべきです。

(2021年3月14日 自宅・礼拝堂礼拝)

主の変容(2021年3月14日 自宅・礼拝堂礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市)


讃美歌21 311番 血潮したたる 奏楽・長井志保乃さん

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マタイによる福音書17章1~13節

関口 康

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」

おはようございます。礼拝堂を開放しての礼拝を再開して3週目です。1都3県に対する政府の緊急事態宣言は、現時点の説明では来週日曜日まで続くようです。

しかしまた、たとえば私は今ほぼ毎日のように、電車やバスに乗って遠くの学校まで出かけ、外出先で食事をしています。対策をとっているかぎりはふだんと全く変わりません。それで怖いと私はもう思いません。

怖がる理由、外出しない理由、人と会わない理由を探し始めれば、事欠くことはありません。しかし、テレビや新聞の情報がすべてではありません。私が何を言おうと、誰の何の参考になるとも思いません。しかし、東京や神奈川の中心部分の状況を、自分の体と目で確かめています。

今の日本の政治を司る人々がもっと信頼できる人たちであれば、あの人々の言うとおりに動くことはやぶさかではありません。しかしそれが難しい状況です。これ以上は言わないでおきます。礼拝堂を閉鎖し続ける理由はもうないと私個人は考えています。

いま申し上げたことと、今日の聖書の箇所とが直接関係あるわけではありません。無理に関係づけたいとも思いません。しかし、この箇所に何が描かれているのか、聖書が何を言おうとしているのかを考えると、あながち全く無関係とも言いがたいところがあることをご理解いただけるのではないかと思えてきます。

イエスさまが、12人の弟子のうちの3人を特別にお選びになって、高い山に登られたというのです。その3人の弟子は、ペトロとヤコブとヨハネでした。「山頂で」とは書かれていませんが、登山の目的地が頂上でないということがありうるでしょうか。おそらく山頂かその付近でのことではないかと思われます。イエスさまのお姿が変わった、というのです。「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(2節)。

姿が変わるというのは、何か違うものに化けることを言うのかもしれません。イエスさまが何か別の存在へとお化けになられたのかどうかは分かりません。山に登って、頂上付近で、太陽の光に照らされて、顔と服が輝いたというような話かどうかも分かりません。

もし何か途轍もないことが起こったのだとしても、それを目撃したのは、この箇所に書かれているとおりに考えれば、ペトロとヤコブとヨハネの3人だけです。この3人が何を見たのか、あるいは何を感じたのか。そのことをわたしたちは、今日の箇所を読んで想像するしかありません。

続きを読みます。高い山でイエスさまのお姿が変わりました。そして、そのイエスさまの前にモーセとエリヤが現れ、その3人の語り合いが始まったというのです。

モーセは紀元前13世紀の人です。イスラエル人を、彼らが奴隷状態にされていたエジプトから脱出させ、約束の地カナンまで連れて行った人です。そしてその旅の途中で「モーセの十戒」を定めたことで知られます。エリヤは紀元前9世紀の人です。イスラエル王国が南北に分裂した後の時代の北王国の預言者で、バアルと呼ばれる異教の神を信じる人たちと対決しました。

その人たちがイエスさまの前に現れた、というわけです。ですから、こういう話というのは、どうしてこういうことが起こりえようか、科学的にありえない、というふうにたとえば反応するのは、そもそも聖書の読み方自体を間違えているとしか言いようがないです。

このように言えばおそらく皆さんにご納得いただけるでありましょう範囲内の言葉で言い換えれば、高い山の上で、ペトロとヤコブとヨハネが見ていたのは、イエスさまがモーセやエリヤについて熱を込めて説教なさるお姿だったのではないかということです。

モーセとエリヤの共通点を強いて言うとすれば、今のわたしたちが「旧約聖書」と呼ぶ39巻の書物の中で最も有名な人たちであるということでしょう。イスラエル人を危機の中から助け出す働きをしたという意味で、イスラエルの人々にとっての国民的英雄として知られている存在です。

その人々のことをイエスさまが、弟子たちに熱を込めてお話しになったのではないでしょうか。イエスさまはモーセとも語り合い、エリヤとも語り合い、そしてその語り合いの中に弟子たちを招き入れられたのではないでしょうか。

「ペトロが口をはさんでイエスに言った」(4節)と記されています。「口をはさむ」と言うと、まるでペトロが邪魔しているかのようです。

イエスさまは何も、弟子たちを放ったらかしにして、モーセとエリヤとの語り合いだけに夢中になっておられたわけではないでしょう。そういうのは礼拝に集まっている人たちの心に届かなくてもお構いなしの、まるで独り言のような説教をしているのと同じでしょう。

説教をさえぎって何かを言えば「私語を慎んでください」と注意されるかもしれませんが、説教者と会衆が対話の関係になることが間違っているとは言えないでしょう。

脱線しかかっているので、話を元に戻します。ペトロがイエスさまにひとつの提案をしました。その内容をかいつまんで言えば、せっかく素晴らしい方々がお集まりなので、お3人のために、わたしがここに仮小屋を3つ建てさせていただきますが、いかがでしょうか、ということです。

そうすれば、いつまでも、何日でも、じっくりお話しできるでしょうというような意味かもしれません。やっぱりちょっと余計なことを言っているようでもあります。こういうことをもし本当にペトロが言ったのだとすれば、口が過ぎる感じがないわけではありません。

しかしまた、ペトロが言っていることをもう少し厳しく考えると、ただ口が過ぎるというだけではなく、事柄のとらえ方に間違いがあるとも思えてきます。それは、ペトロが、イエスさまとモーセとエリヤのために「仮小屋を3つ建てる」と言っているところです。

つまり、ペトロは、3者を同格に見ています。ペトロの側からすれば、イエスさまを信じているけれども、モーセもエリヤもイエスさまと同じ意味で信じている、信頼している、という意味を持ち始めるでしょう。

しかし、ペトロがそう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆い、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」という声が聞こえ、彼らが目を上げると、モーセもエリヤもいなくなって、イエスさまだけが残っていたというのです。つまり、イエスさまの弟子はイエスさまの言葉に従って生きなさいと、彼らに明確な示しがあった、ということです。

このように考えると今日の箇所全体のテーマが分かってきます。イエスさまの弟子は誰に従うのか、です。イエス・キリストの教会は、イエス・キリストの言葉に従うのです。

現代の教会においては、全く通用しない話でしょうか。医学と科学と世論に従うだけならば、宗教は不要でしょう。そう思っている人たちは、もはや教会に足を向けることはないでしょう。

しかし、それでは済まないと思っている人たちが、教会に集まるのです。私もそうです。教会でなければならない意味があると思っているので、牧師を続けています。

すべての判断は各自に任されています。強制はありえません。それぞれ自分の確信に基づいて生きるべきです。

(2021年3月14日 自宅・礼拝堂礼拝)

主の変容(2021年3月14日 自宅・礼拝堂礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市)

讃美歌21 311番 血潮したたる 奏楽・長井志保乃さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます

週報(第3559号)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます

マタイによる福音書17章1~13節

関口 康

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」

おはようございます。礼拝堂を開放しての礼拝を再開して3週目です。1都3県に対する政府の緊急事態宣言は、現時点の説明では来週日曜日まで続くようです。

しかしまた、たとえば私は今ほぼ毎日のように、電車やバスに乗って遠くの学校まで出かけ、外出先で食事をしています。対策をとっているかぎりはふだんと全く変わりません。それで怖いと私はもう思いません。

怖がる理由、外出しない理由、人と会わない理由を探し始めれば、事欠くことはありません。しかし、テレビや新聞の情報がすべてではありません。私が何を言おうと、誰の何の参考になるとも思いません。しかし、東京や神奈川の中心部分の状況を、自分の体と目で確かめています。

今の日本の政治を司る人々がもっと信頼できる人たちであれば、あの人々の言うとおりに動くことはやぶさかではありません。しかしそれが難しい状況です。これ以上は言わないでおきます。礼拝堂を閉鎖し続ける理由はもうないと私個人は考えています。

いま申し上げたことと、今日の聖書の箇所とが直接関係あるわけではありません。無理に関係づけたいとも思いません。しかし、この箇所に何が描かれているのか、聖書が何を言おうとしているのかを考えると、あながち全く無関係とも言いがたいところがあることをご理解いただけるのではないかと思えてきます。

イエスさまが、12人の弟子のうちの3人を特別にお選びになって、高い山に登られたというのです。その3人の弟子は、ペトロとヤコブとヨハネでした。「山頂で」とは書かれていませんが、登山の目的地が頂上でないということがありうるでしょうか。おそらく山頂かその付近でのことではないかと思われます。イエスさまのお姿が変わった、というのです。「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(2節)。

姿が変わるというのは、何か違うものに化けることを言うのかもしれません。イエスさまが何か別の存在へとお化けになられたのかどうかは分かりません。山に登って、頂上付近で、太陽の光に照らされて、顔と服が輝いたというような話かどうかも分かりません。

もし何か途轍もないことが起こったのだとしても、それを目撃したのは、この箇所に書かれているとおりに考えれば、ペトロとヤコブとヨハネの3人だけです。この3人が何を見たのか、あるいは何を感じたのか。そのことをわたしたちは、今日の箇所を読んで想像するしかありません。

続きを読みます。高い山でイエスさまのお姿が変わりました。そして、そのイエスさまの前にモーセとエリヤが現れ、その3人の語り合いが始まったというのです。

モーセは紀元前13世紀の人です。イスラエル人を、彼らが奴隷状態にされていたエジプトから脱出させ、約束の地カナンまで連れて行った人です。そしてその旅の途中で「モーセの十戒」を定めたことで知られます。エリヤは紀元前9世紀の人です。イスラエル王国が南北に分裂した後の時代の北王国の預言者で、バアルと呼ばれる異教の神を信じる人たちと対決しました。

その人たちがイエスさまの前に現れた、というわけです。ですから、こういう話というのは、どうしてこういうことが起こりえようか、科学的にありえない、というふうにたとえば反応するのは、そもそも聖書の読み方自体を間違えているとしか言いようがないです。

このように言えばおそらく皆さんにご納得いただけるでありましょう範囲内の言葉で言い換えれば、高い山の上で、ペトロとヤコブとヨハネが見ていたのは、イエスさまがモーセやエリヤについて熱を込めて説教なさるお姿だったのではないかということです。

モーセとエリヤの共通点を強いて言うとすれば、今のわたしたちが「旧約聖書」と呼ぶ39巻の書物の中で最も有名な人たちであるということでしょう。イスラエル人を危機の中から助け出す働きをしたという意味で、イスラエルの人々にとっての国民的英雄として知られている存在です。

その人々のことをイエスさまが、弟子たちに熱を込めてお話しになったのではないでしょうか。イエスさまはモーセとも語り合い、エリヤとも語り合い、そしてその語り合いの中に弟子たちを招き入れられたのではないでしょうか。

「ペトロが口をはさんでイエスに言った」(4節)と記されています。「口をはさむ」と言うと、まるでペトロが邪魔しているかのようです。

イエスさまは何も、弟子たちを放ったらかしにして、モーセとエリヤとの語り合いだけに夢中になっておられたわけではないでしょう。そういうのは礼拝に集まっている人たちの心に届かなくてもお構いなしの、まるで独り言のような説教をしているのと同じでしょう。

説教をさえぎって何かを言えば「私語を慎んでください」と注意されるかもしれませんが、説教者と会衆が対話の関係になることが間違っているとは言えないでしょう。

脱線しかかっているので、話を元に戻します。ペトロがイエスさまにひとつの提案をしました。その内容をかいつまんで言えば、せっかく素晴らしい方々がお集まりなので、お3人のために、わたしがここに仮小屋を3つ建てさせていただきますが、いかがでしょうか、ということです。

そうすれば、いつまでも、何日でも、じっくりお話しできるでしょうというような意味かもしれません。やっぱりちょっと余計なことを言っているようでもあります。こういうことをもし本当にペトロが言ったのだとすれば、口が過ぎる感じがないわけではありません。

しかしまた、ペトロが言っていることをもう少し厳しく考えると、ただ口が過ぎるというだけではなく、事柄のとらえ方に間違いがあるとも思えてきます。それは、ペトロが、イエスさまとモーセとエリヤのために「仮小屋を3つ建てる」と言っているところです。

つまり、ペトロは、3者を同格に見ています。ペトロの側からすれば、イエスさまを信じているけれども、モーセもエリヤもイエスさまと同じ意味で信じている、信頼している、という意味を持ち始めるでしょう。

しかし、ペトロがそう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆い、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」という声が聞こえ、彼らが目を上げると、モーセもエリヤもいなくなって、イエスさまだけが残っていたというのです。つまり、イエスさまの弟子はイエスさまの言葉に従って生きなさいと、彼らに明確な示しがあった、ということです。

このように考えると今日の箇所全体のテーマが分かってきます。イエスさまの弟子は誰に従うのか、です。イエス・キリストの教会は、イエス・キリストの言葉に従うのです。

現代の教会においては、全く通用しない話でしょうか。医学と科学と世論に従うだけならば、宗教は不要でしょう。そう思っている人たちは、もはや教会に足を向けることはないでしょう。

しかし、それでは済まないと思っている人たちが、教会に集まるのです。私もそうです。教会でなければならない意味があると思っているので、牧師を続けています。

すべての判断は各自に任されています。強制はありえません。それぞれ自分の確信に基づいて生きるべきです。

(2021年3月14日 自宅・礼拝堂礼拝)

2021年3月7日日曜日

受難の予告(2021年3月7日 自宅・礼拝堂礼拝)

石川献之助牧師(最奥)と昭島教会
(画像は約2年前のものです)

讃美歌21 303番 丘の上の主の十字架 奏楽・長井志保乃さん

礼拝開始のチャイムはここをクリックするとお聴きいただけます

週報(第3557・3558号)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)のPDFはここをクリックするとダウンロードできます

マタイによる福音書 16 章 13~28 節

牧師 石川献之助

「それから弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは決して死なない者がいる。」

私たちの教会生活も信仰生活も、聖書の御言葉に従いながら祈りをもっておくられるものだということは当然のことであります。本日与えられた御言葉のごとく、主イエスの弟子たちも、その当時主の御言葉を心におきながらその弟子としての日々をおくっていたことを知らされるのであります。字句の聖書のように私共もまた、主の御言葉を糧として日々をおくることが必要であります。

本日は教会歴でいえば受難節第三主日であります。主イエスは神の子として歩まれました。主が言われたことは、単に不言実行という言い古された教訓でしょうか?誰でも苦労の無い痛みのない道を選びたい、それなのに十字架への道を歩まれた、その意味は何でしょうか?その事を深く考える事こそが、受難節の意味であると思うのです。

受難節が設けられたとは、この問題意識から起こったこと、つまり受難の意味に与り、復活節を迎えるためであるのです。皆さんと御一緒に、このことを考えて今の時を過ごしたいと思います。

今朝与えられました御言葉は、マタイによる福音書 16 章 13 節から 28 節であります。13 節からは、ペトロの信仰について書かれています。

主イエスは、十字架が待つエルサレムに向かわれる前に、フィリポ・カイザリアに行かれ、弟子たちに「人々は人の子のことを何者だと言っているか」(13 節)とお尋ねになりました。弟子たちは、主イエスを洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人だなどと言う人がいると答えました。それから弟子たちに同じ質問をされました。もしかしたら、しばらく沈黙があったかもしれません。

するとシモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」(16 節)と答えました。主イエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(17 節)と示されました。

人々はこれまでの人間が考えられる限りにおいて最高の存在として主イエスを捉えていました。しかしペトロは主イエスを「メシア、生ける神の子」だと告白をします。この重大な信仰上の発見を聞いた主イエスは、「あなたはペトロ。この岩の上にわたしの教会を建てる」(18 節)と仰られたのです。

21 節からは、主イエスの身にこれから起こる十字架の出来事は、突然の出来事ではなく、必然的な道であるということを、主は弟子たちにうちあけておられたのであります。まさにこの時が「受難の予告」をされた最初でありました。その事を打ち明けられた弟子たちにとって、この時点で主イエスの最も重要な使命を理解することは、極めて難しい事柄であったことでしょう。

十字架への道は、主イエスお一人で歩まれました。岩の信仰と認められたペトロでさえ、「サタン、引き下がれ」と主イエスより叱責をうけたのです。忠実な弟子たちも、主イエスの言葉の真意を理解し、主の御苦しみに思いをいたすことはできなかったのです。このことを心に留めながら、この受難節その主イエスの秘義に少しでも与りたいと思います。

十字架の贖いの業は、主イエスにしか成就できない業であり、主イエスは自ら進んで十字架に歩み寄られたのであります。主イエスは人々の罪の値のために、生贄としてご自身をささげられました。この最も尊い十字架の贖いの業の根底には、主イエスの愛があるのです。

姦淫の罪のため石打の刑に処されようとしていた女性に、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。」(ヨハネ 8 章 10~11 節)といって人間を祝福し、示して下さった主イエスの愛があればこそ十字架の出来事が起こったのであります。主イエスが与えて下さった許しというものを心に置くとき、私たちは普段の生活においても主イエスが与えて下さる愛に感謝する、主イエスを好きになる、そのような思いに駆られるのであります。

その愛のお方が「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(24~25 節)と語りかけて下さっています。主イエスにならい神様の御心を実現するべく祈りをもって歩みたいと思います。

他方、現代に生きる私たちは、法の支配のもとに社会生活を営んでいます。コロナウイルスの緊急事態宣言下にあって、礼拝さえもその法則に従ってご承知の様な状態を強いられました。教会の兄弟姉妹の交わりも困難な状況が続きました。このような中であらためて教会で礼拝をささげる事の大切さや交わりの豊かさを再認識させられる思いです。

少しずつ教会の活動再開に向けて歩み始めた今、安全な対策を工夫しながら、互いの交わりを取り戻し深めていく必要を強く感じています。これからも適宜、教会生活に励みつつ、皆さんで教会生活を取り戻すべく力をあわせてまいりたいと思います。

(2021年3月7日 日本キリスト教団昭島教会主日礼拝宣教要旨)