2020年5月31日日曜日

聖霊の賜物(2020年5月31日 ペンテコステ礼拝宣教)





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下記の宣教文のPDF版はここをクリックしてください



ヨハネによる福音書 14 章 15 節~27 節



石川献之助



私たちは三位一体の神を賛美し礼拝しているのだという事を、聖霊降臨節(ペンテコステ)にあたって、新たに心に留めたいと思います。



それは後から付け加えられた恵みというのではなく、もとから救い主イエスと共におられたのです。その聖霊が、主イエスが昇天された後、主イエスを信じる弟子たちが集まっているその上に下り、新たなる現実となったのであります。



聖霊降臨の出来事を伝える聖書の箇所として、使徒言行録 2 章1節~も合わせてお読み下さることをお勧めします。今朝はヨハネによる福音書のテキストを与えられました。



ヨハネによる福音書 14 章 16 節~17 節には「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。」と書かれています。これから起こることに戸惑い、不安でいっぱいの弟子たちに、主イエスは聖霊を与える約束をして下さっています。



この「弁護者」という言葉ですが、ギリシャ語ではパラクレートスといい、口語訳聖書では「助け主」と訳されています。パラクレートスとは、常に困難や苦悩、疑惑、あるいは当惑のもとにある人を助けるために招きいれられる者を意味します。聖霊は私たちに真理を教え、そして真理のための戦いを進めることが出来るようにする弁護者として働いてくださるのです。



主イエスは私たちに何を遺して下さったのでしょうか?それは救いの愛であります。主イエスは十字架という値を払われて、人間の救いの業を完成され、弟子たちに律法ではなく愛を示すために聖霊をおくられた、そこにペンテコステの出来事の意味があるのです。聖

霊に満たされた、主イエスに従う弟子たちの集まりを「教会」と呼び、それは喜びと救いを中心とした交わりなのであります。



私は今、主イエスの心の内を思い起こしています。十字架の出来事の前、主イエスは冷たい洞穴みたいな所に裸でなげこまれて、さぞ寒かったろう、さぞ悲しかったろう、弟子から捨てられたという思いも抱かれたかもしれない。ペテロが群衆に向かって「彼を知らない」「彼とは関係ない」と三度否定したその声を、主イエスは悲しく心に留めたことでしょう。



その後、復活の己を表された主イエスは、弟子ペテロに向かって「あなたはわたしを愛するか?」と三度尋ねました。復活の主イエスが初めて己を表して言われたことは、「わたしを愛するか?」ということ。三度も言われたということ。



しかし、そのペテロに復活の主イエスは、「わたしの子羊を養いなさい」と言われました。「あなたに助け主をおくる」といわれた主イエスの心を思うわけであります。シモン・ペテロは主イエスの深い愛と許しにふれ、新しいペテロに創りかえられて、主イエスに従う決心をしたのであります。



服従というと一般に律法と考える方が多いかもしれません。主イエスは愛するという行為を遺していかれました。自分を捨てて隣人を愛するという行為としての愛は、服従ということであります。神に服従するということであります。



そのことは一見、最後神に服従して己を捨てたと思われやすい。父なる神に服従した、服従としての愛、それは単に喜びを犠牲にして悲しみにかえるようなことではないのです。そうではなくて、神に服従するということは、十字架のイエス様に従うということなのですね。



聖霊に満たされるということは、それ自体喜びであります。聖霊に励まされて、主イエスの愛を新しく受けながら、信仰の生涯を果たしていく道を私たちは与えられているのです。



私たちは9回の尊い主日礼拝を、自宅礼拝という形で分散して守ってきました。小さい自宅での礼拝の中にあっても、心静かに主の愛を身近に感じ、上よりの慰めを得る時が与えられたことは感謝です。一人ひとりが御言葉に向き合い、祈りの中で、讃美の中で、主イエスの御心に豊かに与る恵みの時でもありました。



ペンテコステの聖日は、教会の誕生日だとも言われますが、復活の主イエスの信仰が今年も強められる日であることを覚えたいと思います。主にある教会の交わりの豊かさや楽しさを思い起こし、礼拝の再開を待ちたいと思います。



このような苦難が恵みに変えられていきますように、この昭島教会が一つとなり、ますます主イエスの教会となっていくことができますようにと、祈るばかりです。新しい一週間も、神様の恵みの内を歩んでいきましょう。



(2020年5月31日 各自自宅礼拝)

聖霊の賜物(2020年5月31日 ペンテコステ礼拝宣教)


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ヨハネによる福音書 14 章 15 節~27 節

石川献之助

私たちは三位一体の神を賛美し礼拝しているのだという事を、聖霊降臨節(ペンテコステ)にあたって、新たに心に留めたいと思います。

それは後から付け加えられた恵みというのではなく、もとから救い主イエスと共におられたのです。その聖霊が、主イエスが昇天された後、主イエスを信じる弟子たちが集まっているその上に下り、新たなる現実となったのであります。

聖霊降臨の出来事を伝える聖書の箇所として、使徒言行録 2 章1節~も合わせてお読み下さることをお勧めします。今朝はヨハネによる福音書のテキストを与えられました。

ヨハネによる福音書 14 章 16 節~17 節には「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。」と書かれています。これから起こることに戸惑い、不安でいっぱいの弟子たちに、主イエスは聖霊を与える約束をして下さっています。

この「弁護者」という言葉ですが、ギリシャ語ではパラクレートスといい、口語訳聖書では「助け主」と訳されています。パラクレートスとは、常に困難や苦悩、疑惑、あるいは当惑のもとにある人を助けるために招きいれられる者を意味します。聖霊は私たちに真理を教え、そして真理のための戦いを進めることが出来るようにする弁護者として働いてくださるのです。

主イエスは私たちに何を遺して下さったのでしょうか?それは救いの愛であります。主イエスは十字架という値を払われて、人間の救いの業を完成され、弟子たちに律法ではなく愛を示すために聖霊をおくられた、そこにペンテコステの出来事の意味があるのです。聖
霊に満たされた、主イエスに従う弟子たちの集まりを「教会」と呼び、それは喜びと救いを中心とした交わりなのであります。

私は今、主イエスの心の内を思い起こしています。十字架の出来事の前、主イエスは冷たい洞穴みたいな所に裸でなげこまれて、さぞ寒かったろう、さぞ悲しかったろう、弟子から捨てられたという思いも抱かれたかもしれない。ペテロが群衆に向かって「彼を知らない」「彼とは関係ない」と三度否定したその声を、主イエスは悲しく心に留めたことでしょう。

その後、復活の己を表された主イエスは、弟子ペテロに向かって「あなたはわたしを愛するか?」と三度尋ねました。復活の主イエスが初めて己を表して言われたことは、「わたしを愛するか?」ということ。三度も言われたということ。

しかし、そのペテロに復活の主イエスは、「わたしの子羊を養いなさい」と言われました。「あなたに助け主をおくる」といわれた主イエスの心を思うわけであります。シモン・ペテロは主イエスの深い愛と許しにふれ、新しいペテロに創りかえられて、主イエスに従う決心をしたのであります。

服従というと一般に律法と考える方が多いかもしれません。主イエスは愛するという行為を遺していかれました。自分を捨てて隣人を愛するという行為としての愛は、服従ということであります。神に服従するということであります。

そのことは一見、最後神に服従して己を捨てたと思われやすい。父なる神に服従した、服従としての愛、それは単に喜びを犠牲にして悲しみにかえるようなことではないのです。そうではなくて、神に服従するということは、十字架のイエス様に従うということなのですね。

聖霊に満たされるということは、それ自体喜びであります。聖霊に励まされて、主イエスの愛を新しく受けながら、信仰の生涯を果たしていく道を私たちは与えられているのです。

私たちは9回の尊い主日礼拝を、自宅礼拝という形で分散して守ってきました。小さい自宅での礼拝の中にあっても、心静かに主の愛を身近に感じ、上よりの慰めを得る時が与えられたことは感謝です。一人ひとりが御言葉に向き合い、祈りの中で、讃美の中で、主イエスの御心に豊かに与る恵みの時でもありました。

ペンテコステの聖日は、教会の誕生日だとも言われますが、復活の主イエスの信仰が今年も強められる日であることを覚えたいと思います。主にある教会の交わりの豊かさや楽しさを思い起こし、礼拝の再開を待ちたいと思います。

このような苦難が恵みに変えられていきますように、この昭島教会が一つとなり、ますます主イエスの教会となっていくことができますようにと、祈るばかりです。新しい一週間も、神様の恵みの内を歩んでいきましょう。

(2020年5月31日 各自自宅礼拝)

2020年5月29日金曜日

ピアノ賛美「主は教会の基となり」長井志保乃さん

長井志保乃さんが「主は教会の基となり」(讃美歌21 390)を演奏してくださいました。5月31日(日)ペンテコステ礼拝も各自自宅礼拝ですが、イエス・キリストという基(もとい)の上に立つ教会を心のうちに描きながら共に歌いましょう。長井さんありがとうございます!




 

ピアノ賛美「主は教会の基となり」長井志保乃さん

長井志保乃さんが「主は教会の基となり」(讃美歌21 390)を演奏してくださいました。5月31日(日)ペンテコステ礼拝も各自自宅礼拝ですが、イエス・キリストという基(もとい)の上に立つ教会を心のうちに描きながら共に歌いましょう。長井さんありがとうございます!

 

2020年5月24日日曜日

キリストの昇天(2020年5月24日 礼拝宣教)





下記の宣教文の「朗読」(音声12分17秒)はここをクリックしてください



「今日の挨拶(関口康)」(音声1分3秒)はここをクリックしてください



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下記の宣教文のPDF版はここをクリックしてください



ヨハネによる福音書7章32~39節



関口 康



「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」



各自自宅礼拝に教会の週報と宣教文をお届けするのは、今の苦しい時をみんなの祈りの力で乗り越えたいと願っているからです。顔を合わせ、手を取り合うことが今はできなくても、心の中で教会を感じ、共に祈ることにおいて互いに励まし合う関係を、なんとかして少しでも形にあらわすことを続けていきたいからです。



私が昭島教会の皆さんと出会ったのはまだわずか2年前です。それ以前の65年間の歩みを知りません。それでも私に分かるのは、この教会の皆さんは祈りの力によって多くの困難を忍耐強く乗り越えてこられた方々であるということです。



そうでなければ、教会というものは、あっという間に壊れてしまうところがあります。否定的なことは言いたくありません。昭島教会の存在はおひとりおひとりの祈りと努力の結晶です、と申し上げたいだけです。



今日の聖書の個所も、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。このときイエスさまはエルサレムにおられました。エルサレム神殿の境内で神さまのみことばを宣教なさいました。すると「人々がイエスを捕らえようとした」(7章30節)というのです。イエスさまの宣教を妨害しようとしたというのです。



しかしイエスさまは、少しも怯むことなく宣教をお続けになりました。そのうえでイエスさまはご自身が十字架にかけられることを覚悟しておられました。そのようなことは普通の人には堪えられないことです。しかし、イエスさまがそれを堪えることがおできになったのは、ご自身が父なる神さまからこの世に対して遣わされた方として、宣教の使命を強く自覚しておられたからです。神さまの御言葉を宣べ伝えるために、わたしはこの世に生を受けたのであり、そのために生きているのだということを確信しておられたからです。



教会はどうでしょうか。個人としてのわたしたちひとりひとりは、神さまの御言葉を宣べ伝えるために私は生まれたというほどの強い自覚を持つことは考えにくいところがあります。そこまでの思いを抱くことができる方がおられるなら尊重されるべきですが、そうでないことを責められる関係にまではないでしょう。



しかし、ひとりひとりは弱さを抱える存在であっても、イエスさまのからだとしての教会へと加えられ、信仰と祈りにおいて互いに支え合い、高め合う関係を得るならば、さまざまな障害や妨害を共に乗り越えて、宣教を続けていくことができるようになるでしょう。



それは単なる想像や希望的観測といったものではなく、現実の教会が現実に体験してきた事実です。もしそうでないとしたら、わたしたちは、他の誰でもなく自分自身のことを振り返ってみて、なぜ私はこんなに長い信仰生活を続けてくることができたのか、自分で説明がつかなくなるでしょう。



私が忍耐強かったからでしょうか。私の信仰が強かったからでしょうか。だから私はこんなに長く信仰生活を続けられたのでしょうか。「まさかそんなわけがない。ありえない」と、おそらくだれもが考えるのではないでしょうか。むしろ逆に「あんなに弱かったこの私が、どうしてこんなに」という思いを、ほとんどの方が抱くのではないでしょうか。



わたしたちのうちに宿ったこの不思議な力は、神さまから与えられたものです。それは、イエスさまを救い主とする信仰の力でもありますが、同時にその信仰をもって共に生き、祈りをもって互いに支え合う「教会」の存在を抜きにしては考えられない力です。



このように考えていきますと、わたしたちは「教会」を、単純に「人間の集まりだ」と言うだけで済ませてはならないことが分かってきます。なぜそう言えるのかといえば、家や村や町や国、あるいは会社や学校や社会と少しも変わらない意味で「教会もまた人間の集まりにすぎない」と言って済むならば、わたしたちに与えられた不思議な力の源は何なのかを全く説明できなくなってしまうからです。



たとえば、私の性格が「しつこい」からこんなに長く教会生活を続けることができたのでしょうか。そのように冗談か自嘲で言うのは構わないと思いますし、家族や悪友は遠慮なくそんなふうに言うかもしれません。しかし、そんなことではとても説明がつかないことです。



今日の箇所の37節以下で、イエスさまがとても大事なことをおっしゃっています。それをイエスさまは「立ち上がって大声で言われた」(37節)と書かれています。



「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。

わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、

その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(!!)



続く箇所に、「生きた水」とは“霊”、すなわち「聖霊」を指すと説明されています(39節)。そして、その水はイエスさまのところで飲んだものだというわけです。



つまり「その人の内から生きた水が川となって流れ出る」とは、父なる神さまから出て、イエスさまを通って、聖霊によってわたしたちの中に流れ込んだ何かが、さらにわたしたちから流れ出て多くの人々に及び、時代と世代を越えて受け渡されていくことを指していると言えます。



それは何でしょうか。それはもちろん神さまの力です。そして信仰の力も加わるでしょう。しかし、それだけでなく、「教会」の存在が含まれると言わなくてはなりません。神さまと個人の関係だけでは説明できません。



個人の力がいかに弱く、もろく、はかないものであるかは、だれから指摘されなくとも、わたしたち自身が最も自覚していることではありませんか。このように言うのは、教会を押し付けたいからではなく、教会のみんなで力を合わせることの心強さを、今の苦しいときにこそ思い起こしたいからです。



イエスさまは、今は、わたしたちの目に見えない天の父のみもとへと挙げられています。それを「昇天」(しょうてん)と言います。わたしたちが地上の人生を終えて天へと召されることを指す「召天」(しょうてん)とは区別されますが、無関係ではありません。



イエスさまは本来、神であられる方として、天へとお戻りになったのです。わたしたちは、人間として、人間のままで、天へと国籍が移され、永遠に神と共に生きる者となるのです。



この信仰に支えられつつ、希望と喜びをもって、今週も共に歩んでまいりましょう。



(2020年5月24日 各自自宅礼拝)




キリストの昇天(2020年5月24日 礼拝宣教)


下記の宣教文の「朗読」(音声12分17秒)はここをクリックしてください

「今日の挨拶(関口康)」(音声1分3秒)はここをクリックしてください

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ヨハネによる福音書7章32~39節

関口 康

「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

各自自宅礼拝に教会の週報と宣教文をお届けするのは、今の苦しい時をみんなの祈りの力で乗り越えたいと願っているからです。顔を合わせ、手を取り合うことが今はできなくても、心の中で教会を感じ、共に祈ることにおいて互いに励まし合う関係を、なんとかして少しでも形にあらわすことを続けていきたいからです。

私が昭島教会の皆さんと出会ったのはまだわずか2年前です。それ以前の65年間の歩みを知りません。それでも私に分かるのは、この教会の皆さんは祈りの力によって多くの困難を忍耐強く乗り越えてこられた方々であるということです。

そうでなければ、教会というものは、あっという間に壊れてしまうところがあります。否定的なことは言いたくありません。昭島教会の存在はおひとりおひとりの祈りと努力の結晶です、と申し上げたいだけです。

今日の聖書の個所も、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。このときイエスさまはエルサレムにおられました。エルサレム神殿の境内で神さまのみことばを宣教なさいました。すると「人々がイエスを捕らえようとした」(7章30節)というのです。イエスさまの宣教を妨害しようとしたというのです。

しかしイエスさまは、少しも怯むことなく宣教をお続けになりました。そのうえでイエスさまはご自身が十字架にかけられることを覚悟しておられました。そのようなことは普通の人には堪えられないことです。しかし、イエスさまがそれを堪えることがおできになったのは、ご自身が父なる神さまからこの世に対して遣わされた方として、宣教の使命を強く自覚しておられたからです。神さまの御言葉を宣べ伝えるために、わたしはこの世に生を受けたのであり、そのために生きているのだということを確信しておられたからです。

教会はどうでしょうか。個人としてのわたしたちひとりひとりは、神さまの御言葉を宣べ伝えるために私は生まれたというほどの強い自覚を持つことは考えにくいところがあります。そこまでの思いを抱くことができる方がおられるなら尊重されるべきですが、そうでないことを責められる関係にまではないでしょう。

しかし、ひとりひとりは弱さを抱える存在であっても、イエスさまのからだとしての教会へと加えられ、信仰と祈りにおいて互いに支え合い、高め合う関係を得るならば、さまざまな障害や妨害を共に乗り越えて、宣教を続けていくことができるようになるでしょう。

それは単なる想像や希望的観測といったものではなく、現実の教会が現実に体験してきた事実です。もしそうでないとしたら、わたしたちは、他の誰でもなく自分自身のことを振り返ってみて、なぜ私はこんなに長い信仰生活を続けてくることができたのか、自分で説明がつかなくなるでしょう。

私が忍耐強かったからでしょうか。私の信仰が強かったからでしょうか。だから私はこんなに長く信仰生活を続けられたのでしょうか。「まさかそんなわけがない。ありえない」と、おそらくだれもが考えるのではないでしょうか。むしろ逆に「あんなに弱かったこの私が、どうしてこんなに」という思いを、ほとんどの方が抱くのではないでしょうか。

わたしたちのうちに宿ったこの不思議な力は、神さまから与えられたものです。それは、イエスさまを救い主とする信仰の力でもありますが、同時にその信仰をもって共に生き、祈りをもって互いに支え合う「教会」の存在を抜きにしては考えられない力です。

このように考えていきますと、わたしたちは「教会」を、単純に「人間の集まりだ」と言うだけで済ませてはならないことが分かってきます。なぜそう言えるのかといえば、家や村や町や国、あるいは会社や学校や社会と少しも変わらない意味で「教会もまた人間の集まりにすぎない」と言って済むならば、わたしたちに与えられた不思議な力の源は何なのかを全く説明できなくなってしまうからです。

たとえば、私の性格が「しつこい」からこんなに長く教会生活を続けることができたのでしょうか。そのように冗談か自嘲で言うのは構わないと思いますし、家族や悪友は遠慮なくそんなふうに言うかもしれません。しかし、そんなことではとても説明がつかないことです。

今日の箇所の37節以下で、イエスさまがとても大事なことをおっしゃっています。それをイエスさまは「立ち上がって大声で言われた」(37節)と書かれています。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、
その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(!!)

続く箇所に、「生きた水」とは“霊”、すなわち「聖霊」を指すと説明されています(39節)。そして、その水はイエスさまのところで飲んだものだというわけです。

つまり「その人の内から生きた水が川となって流れ出る」とは、父なる神さまから出て、イエスさまを通って、聖霊によってわたしたちの中に流れ込んだ何かが、さらにわたしたちから流れ出て多くの人々に及び、時代と世代を越えて受け渡されていくことを指していると言えます。

それは何でしょうか。それはもちろん神さまの力です。そして信仰の力も加わるでしょう。しかし、それだけでなく、「教会」の存在が含まれると言わなくてはなりません。神さまと個人の関係だけでは説明できません。

個人の力がいかに弱く、もろく、はかないものであるかは、だれから指摘されなくとも、わたしたち自身が最も自覚していることではありませんか。このように言うのは、教会を押し付けたいからではなく、教会のみんなで力を合わせることの心強さを、今の苦しいときにこそ思い起こしたいからです。

イエスさまは、今は、わたしたちの目に見えない天の父のみもとへと挙げられています。それを「昇天」(しょうてん)と言います。わたしたちが地上の人生を終えて天へと召されることを指す「召天」(しょうてん)とは区別されますが、無関係ではありません。

イエスさまは本来、神であられる方として、天へとお戻りになったのです。わたしたちは、人間として、人間のままで、天へと国籍が移され、永遠に神と共に生きる者となるのです。

この信仰に支えられつつ、希望と喜びをもって、今週も共に歩んでまいりましょう。

(2020年5月24日 各自自宅礼拝)

2020年5月23日土曜日

ピアノ賛美「この世のなみかぜさわぎ」長井志保乃さん

昭島教会オルガニストの長井志保乃さんが「この世のなみかぜさわぎ」(讃美歌第二編 157)をピアノで演奏してくださいました。とても美しく、今のわたしたちにぴったりの曲です。5月24日(日)の各自自宅礼拝でぜひ一緒に歌いましょう。長井さん、ありがとうございます!




ピアノ賛美「この世のなみかぜさわぎ」長井志保乃さん

昭島教会オルガニストの長井志保乃さんが「この世のなみかぜさわぎ」(讃美歌第二編 157)をピアノで演奏してくださいました。とても美しく、今のわたしたちにぴったりの曲です。5月24日(日)の各自自宅礼拝でぜひ一緒に歌いましょう。長井さん、ありがとうございます!

2020年5月22日金曜日

賛美動画「シューベルトのアヴェ・マリア」富栄徳さん編集

昭島教会の富栄徳さんが編集してくださいました。「この曲が心に響きましたので編集しました。この曲は教会用に作られたものではありませんが、敬虔な祈りを誘ってくれます。このコロナ禍の中で無念のうちに召された多くの方々に捧げたいと思います」。ありがとうございます!



 

賛美動画「シューベルトのアヴェ・マリア」富栄徳さん編集

昭島教会の富栄徳さんが編集してくださいました。「この曲が心に響きましたので編集しました。この曲は教会用に作られたものではありませんが、敬虔な祈りを誘ってくれます。このコロナ禍の中で無念のうちに召された多くの方々に捧げたいと思います」。ありがとうございます!

 

2020年5月17日日曜日

キリストの勝利(2020年5月17日 礼拝宣教)





ヨハネによる福音書16章25~33節



関口 康



「あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」



このところ毎回最初に申し上げることが「今日も各自自宅礼拝です」という言葉であるのは、なんとも言えない気持ちです。一日も早く今の避難状況を脱し、元通りみんなで教会に集まって主日公同礼拝を行いたいと願うばかりです。



しかし、申し訳ないことに、今の私はテレビを観ることができずにいます。テレビがないわけではありません。教会の大きなテレビを牧師館にお借りしています。しかし、スイッチを入れることができません。



教会のテレビをお借りしたきっかけを覚えています。2018年6月末から7月初めにかけて西日本を襲った豪雨災害でした。私の実家が岡山にあることは皆さんに明かしているとおりです。「ご実家は大丈夫ですか」と、多くの方々が心配してくださいました。



「ええ、まあ、たぶん大丈夫だと思います。何かあれば連絡が来るでしょう」とお答えしたとき、うっかり「テレビを観ていないので」と口を滑らしてしまいました。それでみなさんに驚かれまして、テレビをお借りすることになりました。



なぜテレビを観なくなってしまったのか、直接の原因は分かりません。うそばかりをつく政治家と、その人たちの言いなりになっているとしか思えない人たちばかりが出演しているように見えるテレビに堪えられなくなった気がします。



私が得ている情報はインターネットだけです。それが信頼できるかどうかは分かりません。しかし、だからといってテレビは信頼できるとは全く思えません。これ以上のことは、私に問われても押し問答になるだけです。「ごめんなさい」と謝るしかありません。



今日選んだ聖書の箇所はヨハネによる福音書16章25節から33節までです。イエスさまが十字架にかけられる前の夜、弟子たちと共に囲まれた「最後の晩餐」での言葉です。



「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」(28節)とイエスさまがお語りになっています。「わたしは、今、世を去る」とはっきりと。



それで弟子たちは「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」(30節)と答えますが、その弟子たちにイエスさまが「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」(31節)とお返しになります。



しかし、ちょっと待ってください。いま読んでいるのは新共同訳聖書です。「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする」は翻訳のひとつの可能性ですが、「あなたがたが帰ってしまい(?)、わたしをひとりきり(?)にする」と言われますと、寂しくて仕方がないイエスさまが、しょんぼりして、恨みがましい目を弟子たちに向け、すねておられるようです。しかし、本当にそうでしょうか。



そのことが気になりましたので何冊か英語聖書を調べました。新共同訳聖書(新約1987年)が誕生する前、日本の教会で長く用いられた口語訳聖書(新約1954年)に強い影響を与えた英語聖書「改定標準訳」(Revised Standard Version)(1946年)はWhen you will be scattered, every man to his home, and will leave me alone.と訳していました。これが新共同訳聖書に最も近いと思います。



しかし、「改定標準訳」よりもずっと古い「欽定訳」と呼ばれる英語聖書(King James Version、1611年発行)はevery man to his ownと訳していました。his ownはhis homeよりも広い意味です。「自分の家」ではなく「自分自身」または「自分のもの」という意味です。



また私は完全に独学ですが、23年前(1997年)からオランダ語を学んでいます。オランダ語聖書を調べたところ、英語の欽定訳と同じ意味の「自分自身」(het zijne(ヘット・ゼイネ))、あるいは「自分の道」(eigen weg(エイヘン・ヴェフ))と訳している例もありました。



ギリシア語原文のことを先に言うべきだったかもしれません。鋭い方は、もうお気づきでしょう。原文には「家」を意味する言葉はありません。「欽定訳」と呼ばれる17世紀の英語聖書はギリシア語原文に忠実です。「家」(home)に当たる言葉はないので「自分自身」(his own)と訳したのでしょう。



私の勉強や知識をひけらかしているのではありません。このときイエスさまが上目遣いで「おれをひとりぼっちにするのか。自分の家に逃げ帰るのか」とおっしゃったのどうかを、はっきりさせたいだけです。



違います。イエスさまはそのようなことをおっしゃっていません。「今、世を去って、父のもとに行く」は、わたしは死ぬという意味です。だから、「我々は散会する。各自で行動する。私はひとりで残る」とおっしゃっているだけです。



そうでないかぎり「勇気を持ちなさい」という言葉につながりません。もしイエスさまが「おれをひとりぼっちにするのか」の直後に「勇気を持ちなさい」とおっしゃったとすれば支離滅裂ですし、皮肉か嫌味を言っておられるかのようです。そんなわけがないのです。



「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださる」(32節)、そして「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(33節)と、イエスさまが続けておられます。



その意味は、わたしはひとりで十字架につく、しかし、父なる神さまがわたしと共にいてくださるので、わたしはひとりではないということです。「神が共にいてくださること」以上の「力」も「強さ」もないのだから、わたしは勝利者であるということです。



そして、勝利者であるわたしイエス・キリストを信じて、これからあなたがたは「各自で」生きていくのだ。そのための「勇気を持ちなさい」ということです。



今日の箇所に描かれたイエスさまと弟子たちの関係には、わたしたちが置かれている状況と重なり合うものがあります。



このときのイエスさまも「散会」が永久に続くという意味でおっしゃっているのではありません。わたしがひとりで十字架につく。その間は避難していなさい、安全なところにいなさい、という意味です。また集まることができるその日まで。



わたしたちも、イエスさまが弟子たちに求めた「勇気」を、持とうではありませんか。



(2020年5月14日 各自自宅礼拝)

キリストの勝利(2020年5月17日 礼拝宣教)


ヨハネによる福音書16章25~33節

関口 康

「あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

このところ毎回最初に申し上げることが「今日も各自自宅礼拝です」という言葉であるのは、なんとも言えない気持ちです。一日も早く今の避難状況を脱し、元通りみんなで教会に集まって主日公同礼拝を行いたいと願うばかりです。

しかし、申し訳ないことに、今の私はテレビを観ることができずにいます。テレビがないわけではありません。教会の大きなテレビを牧師館にお借りしています。しかし、スイッチを入れることができません。

教会のテレビをお借りしたきっかけを覚えています。2018年6月末から7月初めにかけて西日本を襲った豪雨災害でした。私の実家が岡山にあることは皆さんに明かしているとおりです。「ご実家は大丈夫ですか」と、多くの方々が心配してくださいました。

「ええ、まあ、たぶん大丈夫だと思います。何かあれば連絡が来るでしょう」とお答えしたとき、うっかり「テレビを観ていないので」と口を滑らしてしまいました。それでみなさんに驚かれまして、テレビをお借りすることになりました。

なぜテレビを観なくなってしまったのか、直接の原因は分かりません。うそばかりをつく政治家と、その人たちの言いなりになっているとしか思えない人たちばかりが出演しているように見えるテレビに堪えられなくなった気がします。

私が得ている情報はインターネットだけです。それが信頼できるかどうかは分かりません。しかし、だからといってテレビは信頼できるとは全く思えません。これ以上のことは、私に問われても押し問答になるだけです。「ごめんなさい」と謝るしかありません。

今日選んだ聖書の箇所はヨハネによる福音書16章25節から33節までです。イエスさまが十字架にかけられる前の夜、弟子たちと共に囲まれた「最後の晩餐」での言葉です。

「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」(28節)とイエスさまがお語りになっています。「わたしは、今、世を去る」とはっきりと。

それで弟子たちは「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」(30節)と答えますが、その弟子たちにイエスさまが「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」(31節)とお返しになります。

しかし、ちょっと待ってください。いま読んでいるのは新共同訳聖書です。「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする」は翻訳のひとつの可能性ですが、「あなたがたが帰ってしまい(?)、わたしをひとりきり(?)にする」と言われますと、寂しくて仕方がないイエスさまが、しょんぼりして、恨みがましい目を弟子たちに向け、すねておられるようです。しかし、本当にそうでしょうか。

そのことが気になりましたので何冊か英語聖書を調べました。新共同訳聖書(新約1987年)が誕生する前、日本の教会で長く用いられた口語訳聖書(新約1954年)に強い影響を与えた英語聖書「改定標準訳」(Revised Standard Version)(1946年)はWhen you will be scattered, every man to his home, and will leave me alone.と訳していました。これが新共同訳聖書に最も近いと思います。

しかし、「改定標準訳」よりもずっと古い「欽定訳」と呼ばれる英語聖書(King James Version、1611年発行)はevery man to his ownと訳していました。his ownはhis homeよりも広い意味です。「自分の家」ではなく「自分自身」または「自分のもの」という意味です。

また私は完全に独学ですが、23年前(1997年)からオランダ語を学んでいます。オランダ語聖書を調べたところ、英語の欽定訳と同じ意味の「自分自身」(het zijne(ヘット・ゼイネ))、あるいは「自分の道」(eigen weg(エイヘン・ヴェフ))と訳している例もありました。

ギリシア語原文のことを先に言うべきだったかもしれません。鋭い方は、もうお気づきでしょう。原文には「家」を意味する言葉はありません。「欽定訳」と呼ばれる17世紀の英語聖書はギリシア語原文に忠実です。「家」(home)に当たる言葉はないので「自分自身」(his own)と訳したのでしょう。

私の勉強や知識をひけらかしているのではありません。このときイエスさまが上目遣いで「おれをひとりぼっちにするのか。自分の家に逃げ帰るのか」とおっしゃったのどうかを、はっきりさせたいだけです。

違います。イエスさまはそのようなことをおっしゃっていません。「今、世を去って、父のもとに行く」は、わたしは死ぬという意味です。だから、「我々は散会する。各自で行動する。私はひとりで残る」とおっしゃっているだけです。

そうでないかぎり「勇気を持ちなさい」という言葉につながりません。もしイエスさまが「おれをひとりぼっちにするのか」の直後に「勇気を持ちなさい」とおっしゃったとすれば支離滅裂ですし、皮肉か嫌味を言っておられるかのようです。そんなわけがないのです。

「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださる」(32節)、そして「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(33節)と、イエスさまが続けておられます。

その意味は、わたしはひとりで十字架につく、しかし、父なる神さまがわたしと共にいてくださるので、わたしはひとりではないということです。「神が共にいてくださること」以上の「力」も「強さ」もないのだから、わたしは勝利者であるということです。

そして、勝利者であるわたしイエス・キリストを信じて、これからあなたがたは「各自で」生きていくのだ。そのための「勇気を持ちなさい」ということです。

今日の箇所に描かれたイエスさまと弟子たちの関係には、わたしたちが置かれている状況と重なり合うものがあります。

このときのイエスさまも「散会」が永久に続くという意味でおっしゃっているのではありません。わたしがひとりで十字架につく。その間は避難していなさい、安全なところにいなさい、という意味です。また集まることができるその日まで。

わたしたちも、イエスさまが弟子たちに求めた「勇気」を、持とうではありませんか。

(2020年5月14日 各自自宅礼拝)

2020年5月16日土曜日

ピアノ賛美「いつくしみ深い」長井志保乃さん

昭島教会オルガニストの長井志保乃さんが「いつくしみ深い」(讃美歌21 493)をピアノで演奏してくださいました。弟子を「友」とお呼びになったイエスさま(ヨハネ15章14節)の愛の歌です。孤独になりがちなとき、共に歌いましょう。長井さん、ありがとうございます!



 

ピアノ賛美「いつくしみ深い」長井志保乃さん

昭島教会オルガニストの長井志保乃さんが「いつくしみ深い」(讃美歌21 493)をピアノで演奏してくださいました。弟子を「友」とお呼びになったイエスさま(ヨハネ15章14節)の愛の歌です。孤独になりがちなとき、共に歌いましょう。長井さん、ありがとうございます!

 

2020年5月10日日曜日

聖霊の結ぶ実


ヨハネによる福音書15章18~27節

関口 康

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」

感染症対策としての「各自自宅礼拝」が2か月目です。今日は「母の日」です。みんなで教会に集まれない中で迎える「母の日」に悔しさを覚えるのは私だけではないと思います。

もっとも私自身は帰省すらめったにしない親不孝者なので、皆さんの参考になりません。私の両親は私が生まれる前からキリスト者ですので、息子を「神さまにささげた」と信じていてくれます。それを言い訳にして、実家にはすっかりご無沙汰しています。

しかし、皆さんはぜひお母さまを大切にしてください。私以上に、お母さまを大切にしてください。それだけに、帰省が規制されている今の状況が残念でなりません。

今日の聖書の箇所も、いつもと同じように、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。「母の日」との関係は見当たりません。しかし、「父」と呼ばれる存在について記されている箇所です。ここに記されているのは、イエスさまの言葉です。イエスさまの「父」は神さまであると、イエスさまご自身が明らかになさっています。

再び私の個人的な話になるのをお許しいただきたいです。今日の箇所を含むヨハネによる福音書15章は、私にとって特別な意識を持たざるをえない章です。私が生まれたときから高校卒業まで家族と一緒に通っていた教会で、少なくともその当時、日曜の朝の礼拝でも、夕礼拝でも、教会学校でも、水曜の夜の祈祷会でも、教会附属幼稚園でも、いつも必ず同じ「ヨハネによる福音書15章1節から11節まで」が朗読されていたからです。

教会学校で歌われるこどもさんびかの1節の歌詞は、「主イエスはまことのぶどうの木、わたしはつながる小枝です、育てる神さま手入れして、実らぬ小枝を切り捨てる」でした。最後の「切り捨てる」という言葉が恐ろしかったことが忘れられません。しかし、たしかにイエスさまがお語りになったとおりのことが歌われています。

聖書の中のひとつの箇所が、20年近く(その後のことは知りません)、どの集会でも開かれていた教会というのは例が少ないかもしれません。その真似をするつもりはありませんが、その教会の当時の様子を批判する意味もありません。私にとってのヨハネによる福音書15章は、潜在意識に埋め込まれていると言えるほどだと、申し上げています。

今日の箇所の内容は、イエスさまが神さまを「父」とお呼びになったこと、そしてイエスさまは「父なる神の子」であられることです。そのことをイエスさまご自身が明らかにしておられます。しかも、両者の「親子関係」は単なる比喩ではありません。イエスさまの本質を表しています。「神さまの子ども」は「神」です。イエスさまが「神さま」です。

そうであるということを、ヨハネによる福音書は、最初の章から語っています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1章18節)と記されています。この「父のふところにいる独り子である神」がイエス・キリストです。

だからこそ二千年のキリスト教会は、「神のみこころ」を知ることと「イエス・キリストの教えに従うこと」は等しい関係にあることを信じてきました。そして、イエス・キリストの教えは新約聖書に記されています。教会が新約聖書を重んじてきたのは必然的です。
しかし、私が今日お話しすべきことは、この先の事柄です。話をここで終わらせることはできません。テレビ越しか、ガラス越しか、とにかくかなり隔たりがあります。

「神のみこころ」を知るために「イエス・キリストの教えに従うこと」が、わたしたちに求められています。それはそのとおりです。しかし、ここで起こる問題があります。それは、今のわたしたちは西暦1世紀と同じ状況の中に生きていない、ということです。

「歴史は繰り返す」とも言われます。しかし、それこそ比喩です。時間そのものは逆戻りしません。時間も歴史も不可逆です。もしそうでないなら非常に恐ろしいことになります。何年何十年生きようと、もし時間が不可逆的なものでないなら、人生のすべてが無かったかのように消去されることを意味します。そのようなことがあってはなりません。

教会の歴史も同じです。昭島教会68年、日本のプロテスタント教会160年、キリシタンの歩みと合わせれば日本のキリスト教史470年、そして世界のキリスト教会の二千年の歩みが、まるで無かったかのように消し去られるようなことがあってはなりません。

イエス・キリストの教えに従うことの意味は、わたしたちが二千年前に逆戻りすることではありません。正反対です。わたしたちは「今ここで」、神さまのみこころを知るために、聖書を通してイエス・キリストの教えを学ぶのです。

西暦1世紀と、21世紀との隔たりを埋めてくださるのが「聖霊」です。「聖霊」ご自身も神さまです。イエスさまご自身の言葉でいえば、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊」(26節)が「聖霊」です。

しかも、「聖霊」はわたしたちの心と体(合わせて「存在」)の内側に宿って(内住して)くださる方です。言い方を換えれば、わたしたちの存在は一切否定されません。「あなたが悩んでいることは無価値なので、悩むのをやめなさい」とは言われません。「思考停止することが信仰である」とは言われません。そういう信じ方は異端に通じます。

わたしたちの理性も感情も、悩みも苦しみも、汗も涙も、世界の叡智も、最新の技術も、活かされたままです。そのわたしたちへと、「神のみこころ」と等しい「イエス・キリストの教え」を「聖霊」が届けてくださいます。わたしたちは自分の家で(各自自宅礼拝で)、「神のみこころ」が届くのを待つことができるのです。

「聖霊の結ぶ実」はわたしたちの人生そのものです。とってつけたような、違和感のあるものではありません。わたしたちの人生そのものが、神の恵みであり、奇跡なのです。

(2020年5月10日、日本キリスト教団昭島教会「各自自宅礼拝」)

聖霊の結ぶ実(2020年5月10日 礼拝宣教)





下記の宣教文の「朗読」(音声11分24秒)はここをクリックしてください NEW !



「今日の挨拶(関口康)」(音声56秒)はここをクリックしてください



「礼拝開始チャイム」(音声2分15秒)はここをクリックしてください



下記の宣教文のPDF版はここをクリックしてください



ヨハネによる福音書15章18~27節



関口 康



「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」



感染症対策としての「各自自宅礼拝」が2か月目です。今日は「母の日」です。みんなで教会に集まれない中で迎える「母の日」に悔しさを覚えるのは私だけではないと思います。



もっとも私自身は帰省すらめったにしない親不孝者なので、皆さんの参考になりません。私の両親は私が生まれる前からキリスト者ですので、息子を「神さまにささげた」と信じていてくれます。それを言い訳にして、実家にはすっかりご無沙汰しています。



しかし、皆さんはぜひお母さまを大切にしてください。私以上に、お母さまを大切にしてください。それだけに、帰省が規制されている今の状況が残念でなりません。



今日の聖書の箇所も、いつもと同じように、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。「母の日」との関係は見当たりません。しかし、「父」と呼ばれる存在について記されている箇所です。ここに記されているのは、イエスさまの言葉です。イエスさまの「父」は神さまであると、イエスさまご自身が明らかになさっています。



再び私の個人的な話になるのをお許しいただきたいです。今日の箇所を含むヨハネによる福音書15章は、私にとって特別な意識を持たざるをえない章です。私が生まれたときから高校卒業まで家族と一緒に通っていた教会で、少なくともその当時、日曜の朝の礼拝でも、夕礼拝でも、教会学校でも、水曜の夜の祈祷会でも、教会附属幼稚園でも、いつも必ず同じ「ヨハネによる福音書15章1節から11節まで」が朗読されていたからです。



教会学校で歌われるこどもさんびかの1節の歌詞は、「主イエスはまことのぶどうの木、わたしはつながる小枝です、育てる神さま手入れして、実らぬ小枝を切り捨てる」でした。最後の「切り捨てる」という言葉が恐ろしかったことが忘れられません。しかし、たしかにイエスさまがお語りになったとおりのことが歌われています。



聖書の中のひとつの箇所が、20年近く(その後のことは知りません)、どの集会でも開かれていた教会というのは例が少ないかもしれません。その真似をするつもりはありませんが、その教会の当時の様子を批判する意味もありません。私にとってのヨハネによる福音書15章は、潜在意識に埋め込まれていると言えるほどだと、申し上げています。



今日の箇所の内容は、イエスさまが神さまを「父」とお呼びになったこと、そしてイエスさまは「父なる神の子」であられることです。そのことをイエスさまご自身が明らかにしておられます。しかも、両者の「親子関係」は単なる比喩ではありません。イエスさまの本質を表しています。「神さまの子ども」は「神」です。イエスさまが「神さま」です。



そうであるということを、ヨハネによる福音書は、最初の章から語っています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1章18節)と記されています。この「父のふところにいる独り子である神」がイエス・キリストです。



だからこそ二千年のキリスト教会は、「神のみこころ」を知ることと「イエス・キリストの教えに従うこと」は等しい関係にあることを信じてきました。そして、イエス・キリストの教えは新約聖書に記されています。教会が新約聖書を重んじてきたのは必然的です。



しかし、私が今日お話しすべきことは、この先の事柄です。話をここで終わらせることはできません。テレビ越しか、ガラス越しか、とにかくかなり隔たりがあります。



「神のみこころ」を知るために「イエス・キリストの教えに従うこと」が、わたしたちに求められています。それはそのとおりです。しかし、ここで起こる問題があります。それは、今のわたしたちは西暦1世紀と同じ状況の中に生きていない、ということです。



「歴史は繰り返す」とも言われます。しかし、それこそ比喩です。時間そのものは逆戻りしません。時間も歴史も不可逆です。もしそうでないなら非常に恐ろしいことになります。何年何十年生きようと、もし時間が不可逆的なものでないなら、人生のすべてが無かったかのように消去されることを意味します。そのようなことがあってはなりません。



教会の歴史も同じです。昭島教会68年、日本のプロテスタント教会160年、キリシタンの歩みと合わせれば日本のキリスト教史470年、そして世界のキリスト教会の二千年の歩みが、まるで無かったかのように消し去られるようなことがあってはなりません。



イエス・キリストの教えに従うことの意味は、わたしたちが二千年前に逆戻りすることではありません。正反対です。わたしたちは「今ここで」、神さまのみこころを知るために、聖書を通してイエス・キリストの教えを学ぶのです。



西暦1世紀と、21世紀との隔たりを埋めてくださるのが「聖霊」です。「聖霊」ご自身も神さまです。イエスさまご自身の言葉でいえば、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊」(26節)が「聖霊」です。



しかも、「聖霊」はわたしたちの心と体(合わせて「存在」)の内側に宿って(内住して)くださる方です。言い方を換えれば、わたしたちの存在は一切否定されません。「あなたが悩んでいることは無価値なので、悩むのをやめなさい」とは言われません。「思考停止することが信仰である」とは言われません。そういう信じ方は異端に通じます。



わたしたちの理性も感情も、悩みも苦しみも、汗も涙も、世界の叡智も、最新の技術も、活かされたままです。そのわたしたちへと、「神のみこころ」と等しい「イエス・キリストの教え」を「聖霊」が届けてくださいます。わたしたちは自分の家で(各自自宅礼拝で)、「神のみこころ」が届くのを待つことができるのです。



「聖霊の結ぶ実」はわたしたちの人生そのものです。とってつけたような、違和感のあるものではありません。わたしたちの人生そのものが、神の恵みであり、奇跡なのです。



(2020年5月10日、日本キリスト教団昭島教会「各自自宅礼拝」)




聖霊の結ぶ実(2020年5月10日 礼拝宣教)


下記の宣教文の「朗読」(音声11分24秒)はここをクリックしてください NEW !

「今日の挨拶(関口康)」(音声56秒)はここをクリックしてください

「礼拝開始チャイム」(音声2分15秒)はここをクリックしてください

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ヨハネによる福音書15章18~27節

関口 康

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」

感染症対策としての「各自自宅礼拝」が2か月目です。今日は「母の日」です。みんなで教会に集まれない中で迎える「母の日」に悔しさを覚えるのは私だけではないと思います。

もっとも私自身は帰省すらめったにしない親不孝者なので、皆さんの参考になりません。私の両親は私が生まれる前からキリスト者ですので、息子を「神さまにささげた」と信じていてくれます。それを言い訳にして、実家にはすっかりご無沙汰しています。

しかし、皆さんはぜひお母さまを大切にしてください。私以上に、お母さまを大切にしてください。それだけに、帰省が規制されている今の状況が残念でなりません。

今日の聖書の箇所も、いつもと同じように、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に基づいて選びました。「母の日」との関係は見当たりません。しかし、「父」と呼ばれる存在について記されている箇所です。ここに記されているのは、イエスさまの言葉です。イエスさまの「父」は神さまであると、イエスさまご自身が明らかになさっています。

再び私の個人的な話になるのをお許しいただきたいです。今日の箇所を含むヨハネによる福音書15章は、私にとって特別な意識を持たざるをえない章です。私が生まれたときから高校卒業まで家族と一緒に通っていた教会で、少なくともその当時、日曜の朝の礼拝でも、夕礼拝でも、教会学校でも、水曜の夜の祈祷会でも、教会附属幼稚園でも、いつも必ず同じ「ヨハネによる福音書15章1節から11節まで」が朗読されていたからです。

教会学校で歌われるこどもさんびかの1節の歌詞は、「主イエスはまことのぶどうの木、わたしはつながる小枝です、育てる神さま手入れして、実らぬ小枝を切り捨てる」でした。最後の「切り捨てる」という言葉が恐ろしかったことが忘れられません。しかし、たしかにイエスさまがお語りになったとおりのことが歌われています。

聖書の中のひとつの箇所が、20年近く(その後のことは知りません)、どの集会でも開かれていた教会というのは例が少ないかもしれません。その真似をするつもりはありませんが、その教会の当時の様子を批判する意味もありません。私にとってのヨハネによる福音書15章は、潜在意識に埋め込まれていると言えるほどだと、申し上げています。

今日の箇所の内容は、イエスさまが神さまを「父」とお呼びになったこと、そしてイエスさまは「父なる神の子」であられることです。そのことをイエスさまご自身が明らかにしておられます。しかも、両者の「親子関係」は単なる比喩ではありません。イエスさまの本質を表しています。「神さまの子ども」は「神」です。イエスさまが「神さま」です。

そうであるということを、ヨハネによる福音書は、最初の章から語っています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1章18節)と記されています。この「父のふところにいる独り子である神」がイエス・キリストです。

だからこそ二千年のキリスト教会は、「神のみこころ」を知ることと「イエス・キリストの教えに従うこと」は等しい関係にあることを信じてきました。そして、イエス・キリストの教えは新約聖書に記されています。教会が新約聖書を重んじてきたのは必然的です。

しかし、私が今日お話しすべきことは、この先の事柄です。話をここで終わらせることはできません。テレビ越しか、ガラス越しか、とにかくかなり隔たりがあります。

「神のみこころ」を知るために「イエス・キリストの教えに従うこと」が、わたしたちに求められています。それはそのとおりです。しかし、ここで起こる問題があります。それは、今のわたしたちは西暦1世紀と同じ状況の中に生きていない、ということです。

「歴史は繰り返す」とも言われます。しかし、それこそ比喩です。時間そのものは逆戻りしません。時間も歴史も不可逆です。もしそうでないなら非常に恐ろしいことになります。何年何十年生きようと、もし時間が不可逆的なものでないなら、人生のすべてが無かったかのように消去されることを意味します。そのようなことがあってはなりません。

教会の歴史も同じです。昭島教会68年、日本のプロテスタント教会160年、キリシタンの歩みと合わせれば日本のキリスト教史470年、そして世界のキリスト教会の二千年の歩みが、まるで無かったかのように消し去られるようなことがあってはなりません。

イエス・キリストの教えに従うことの意味は、わたしたちが二千年前に逆戻りすることではありません。正反対です。わたしたちは「今ここで」、神さまのみこころを知るために、聖書を通してイエス・キリストの教えを学ぶのです。

西暦1世紀と、21世紀との隔たりを埋めてくださるのが「聖霊」です。「聖霊」ご自身も神さまです。イエスさまご自身の言葉でいえば、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊」(26節)が「聖霊」です。

しかも、「聖霊」はわたしたちの心と体(合わせて「存在」)の内側に宿って(内住して)くださる方です。言い方を換えれば、わたしたちの存在は一切否定されません。「あなたが悩んでいることは無価値なので、悩むのをやめなさい」とは言われません。「思考停止することが信仰である」とは言われません。そういう信じ方は異端に通じます。

わたしたちの理性も感情も、悩みも苦しみも、汗も涙も、世界の叡智も、最新の技術も、活かされたままです。そのわたしたちへと、「神のみこころ」と等しい「イエス・キリストの教え」を「聖霊」が届けてくださいます。わたしたちは自分の家で(各自自宅礼拝で)、「神のみこころ」が届くのを待つことができるのです。

「聖霊の結ぶ実」はわたしたちの人生そのものです。とってつけたような、違和感のあるものではありません。わたしたちの人生そのものが、神の恵みであり、奇跡なのです。

(2020年5月10日、日本キリスト教団昭島教会「各自自宅礼拝」)

2020年5月7日木曜日

ピアノ賛美「昔 主イエスの」長井志保乃さん

昭島教会オルガニストの長井志保乃さんが「昔 主イエスの」(讃美歌21 412)をピアノで演奏してくださいました。共に歌いましょう。むかし主イエスが蒔いてくださった種の実りが、父なる神の御名によってひとつとなった世界の民です。長井さん、ありがとうございます!



 

ピアノ賛美「昔 主イエスの」長井志保乃さん

昭島教会オルガニストの長井志保乃さんが「昔 主イエスの」(讃美歌21 412)をピアノで演奏してくださいました。共に歌いましょう。むかし主イエスが蒔いてくださった種の実りが、父なる神の御名によってひとつとなった世界の民です。長井さん、ありがとうございます!

 

2020年5月4日月曜日

賛美動画「勝利をわれらに」富栄徳さん編集

昭島教会の富栄徳さんが動画を編集してくださいました。「コロナコロナで先の希望を失いがちな今、半世紀ほど前の彼女のこの歌を聴いて、口ずさむと不思議と力が湧きます。讃美歌471『勝利を望み』と同じ曲です」と、富栄さん。素晴らしい動画をありがとうございます!



賛美動画「勝利をわれらに」富栄徳さん編集

昭島教会の富栄徳さんが動画を編集してくださいました。「コロナコロナで先の希望を失いがちな今、半世紀ほど前の彼女のこの歌を聴いて、口ずさむと不思議と力が湧きます。讃美歌471『勝利を望み』と同じ曲です」と、富栄さん。素晴らしい動画をありがとうございます!

オンライン授業の練習 関口康牧師

(おまけ動画)関口康牧師が非常勤講師をしている学校でオンライン授業が行われることになり、その練習をしている最中に、牧師のお仲間から「受け取ったら腕立て伏せをしなくてはいけない」連絡が届いた。公式ルールは6回だそうが、8回でダウン。体力をつけねば。



 

オンライン授業の練習 関口康牧師

(おまけ動画)関口康牧師が非常勤講師をしている学校でオンライン授業が行われることになり、その練習をしている最中に、牧師のお仲間から「受け取ったら腕立て伏せをしなくてはいけない」連絡が届いた。公式ルールは6回だそうが、8回でダウン。体力をつけねば。

 

2020年5月3日日曜日

弟子への委託(2020年5月3日 礼拝宣教)




石川献之助牧師

「今日の挨拶(関口康)」(音声1分)はここをクリックするとダウンロードできます NEW !



「礼拝開始チャイム」はここをクリックするとダウンロードできます NEW !



下記の宣教文のPDF版はここをクリックするとダウンロードできます



ヨハネによる福音書21章15節~25節



石川献之助



皆さん、私は今日も神様に守られて元気に生きています!




おかげさまで今週の6日には93歳の誕生日を迎えようとしています。この歳まで生きると「天国は近づいている」と思わされることが多いものですから、毎朝目を覚ました時に、新しい一日を生かされているという実感と共に、神様への感謝の思いを抱かずにはいられません。



自粛生活の中で身体が弱らないように、家の中での歩行練習やひと気のない場所での散歩などに努め、また食事を残さないようにいただくなど、自分を励まして過ごしています。それは再び兄弟姉妹が教会に集い、共に礼拝が出来る日を待ち望んでいるからです。



どうぞこの難しい時代を、祈りと思いをひとつにして、主に支えられて共に歩んでいきたいと心から願っています。



先週は、関口先生によって、ヨハネによる福音書21章1節から14節の聖書箇所を学びました。甦られた主イエスが、7人の弟子達のもとへ現れて、共に食事をなさったところです。



本日はその後15節からの御言葉が与えられています。食事を終えたのちに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と主イエスは言われました。



この後続けて主イエスは3回同じ質問をされています。主イエスは十字架にかかる前にイエスの事を3度知らないと言ったペテロ(ペトロ)<マタイ26章69節~75節>に、主への愛を宣言させることにより、「知らない」と言った記憶をぬぐいさらせようとしたのだという見方をする人もあります。主イエスのペテロへの温かい思いが表れている箇所であります。



このペテロへの「わたしを愛しているか」という主イエスの投げかけは、「もしあなたが私を愛するなら私の群れを牧するために生涯を献げなさい」という、ペテロへの委託の言葉であったのであります。主イエスは十字架による死によって終わったのではなく、甦られてこれから始まる神の国の救いの成就のために、弟子たちに臨まれたのであります。



私はかつてローマに旅行しバチカンの前を通った時、そこにペテロの立派な像が建てられているのを見て、ペテロの信仰の偉大さを感じました。しかしその後で、彼が十字架にかけられて殉教の死を遂げたことを思い起こしました。彼は十字架にくぎ付けにされそうになった時、自分は主と同じような仕方で死ぬ価値はないと、十字架に逆さにつけて欲しいと頼んだという話は伝え聞くところであります。



これまでのペテロの人生は、その時の都合でyesとnoとを繰り返すようなものでありました。しかし、ペテロは甦りの主イエスに出会って、信仰に目が開かれ、人生が新しくされ、新しい務めに目覚めたのであります。



復活の主イエスに出会うということは、自分が新しい人に創りかえられるという出来事であり、生涯変わらない真実に出会うということであります。私も振り返れば67年間、主イエスに捉えられて、この思いで牧師の務めを一筋に果たしてきました。



さて、この「わたしを愛しているか」という主イエスの御言葉は、私たち一人ひとりへもなげかけられていることを感じます。私たちは主イエスのこの問いかけにどのように応えていけるのでしょうか。

ペテロのように生涯を伝道に献げる道のみならず、私たち一人ひとりにも新しい道が与えられています。



私たちは主イエスに招かれた者として、喜んで応答していく者でありたい。

ペテロもそうであったように、私たちも復活の主イエスの愛に新しくされて歩む信仰の日々を送りたいと思います。



(2020年5月3日、日本キリスト教団昭島教会「各自自宅礼拝」)

弟子への委託(2020年5月3日 礼拝宣教)

石川献之助牧師
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ヨハネによる福音書21章15節~25節

石川献之助

皆さん、私は今日も神様に守られて元気に生きています!

おかげさまで今週の6日には93歳の誕生日を迎えようとしています。この歳まで生きると「天国は近づいている」と思わされることが多いものですから、毎朝目を覚ました時に、新しい一日を生かされているという実感と共に、神様への感謝の思いを抱かずにはいられません。

自粛生活の中で身体が弱らないように、家の中での歩行練習やひと気のない場所での散歩などに努め、また食事を残さないようにいただくなど、自分を励まして過ごしています。それは再び兄弟姉妹が教会に集い、共に礼拝が出来る日を待ち望んでいるからです。

どうぞこの難しい時代を、祈りと思いをひとつにして、主に支えられて共に歩んでいきたいと心から願っています。

先週は、関口先生によって、ヨハネによる福音書21章1節から14節の聖書箇所を学びました。甦られた主イエスが、7人の弟子達のもとへ現れて、共に食事をなさったところです。

本日はその後15節からの御言葉が与えられています。食事を終えたのちに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と主イエスは言われました。

この後続けて主イエスは3回同じ質問をされています。主イエスは十字架にかかる前にイエスの事を3度知らないと言ったペテロ(ペトロ)<マタイ26章69節~75節>に、主への愛を宣言させることにより、「知らない」と言った記憶をぬぐいさらせようとしたのだという見方をする人もあります。主イエスのペテロへの温かい思いが表れている箇所であります。

このペテロへの「わたしを愛しているか」という主イエスの投げかけは、「もしあなたが私を愛するなら私の群れを牧するために生涯を献げなさい」という、ペテロへの委託の言葉であったのであります。主イエスは十字架による死によって終わったのではなく、甦られてこれから始まる神の国の救いの成就のために、弟子たちに臨まれたのであります。

私はかつてローマに旅行しバチカンの前を通った時、そこにペテロの立派な像が建てられているのを見て、ペテロの信仰の偉大さを感じました。しかしその後で、彼が十字架にかけられて殉教の死を遂げたことを思い起こしました。彼は十字架にくぎ付けにされそうになった時、自分は主と同じような仕方で死ぬ価値はないと、十字架に逆さにつけて欲しいと頼んだという話は伝え聞くところであります。

これまでのペテロの人生は、その時の都合でyesとnoとを繰り返すようなものでありました。しかし、ペテロは甦りの主イエスに出会って、信仰に目が開かれ、人生が新しくされ、新しい務めに目覚めたのであります。

復活の主イエスに出会うということは、自分が新しい人に創りかえられるという出来事であり、生涯変わらない真実に出会うということであります。私も振り返れば67年間、主イエスに捉えられて、この思いで牧師の務めを一筋に果たしてきました。

さて、この「わたしを愛しているか」という主イエスの御言葉は、私たち一人ひとりへもなげかけられていることを感じます。私たちは主イエスのこの問いかけにどのように応えていけるのでしょうか。 ペテロのように生涯を伝道に献げる道のみならず、私たち一人ひとりにも新しい道が与えられています。

私たちは主イエスに招かれた者として、喜んで応答していく者でありたい。 ペテロもそうであったように、私たちも復活の主イエスの愛に新しくされて歩む信仰の日々を送りたいと思います。

(2020年5月3日、日本キリスト教団昭島教会「各自自宅礼拝」)