2020年3月30日月曜日

キリストの沈黙(東京プレヤーセンター)

礼拝後の記念撮影。説教者は前列左から2番目

マタイによる福音書26章63~64節

関口 康

「イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。『生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。』イエスは言われた。『それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗ってくるのを見る。』」

みなさんこんにちは。日本キリスト教団昭島教会の関口康です。今日はよろしくお願いします。

東京プレヤーセンターの「365日礼拝」で説教させていただくのは、今日が2回目です。前回はなんと4年も前の、2016年4月16日でした。

「あれから40年!」という落語がありました。40年ほどではありませんが、前回からの4年の間に、私の身に大きな変化がありました。個人的な近況報告は場違いかもしれませんが、今日の話に関係すると思うところがありますので、最初に触れることをお許しください。

第一の変化は、引っ越ししました。4年前は千葉県柏市に家族と共に住んでいました。今は昭島教会の牧師館にひとりで住んでいます。2人の子どもが2年前にそれぞれの学校を卒業し、就職しました。同じタイミングで私が昭島教会の牧師になりました。妻も自分の職業を持っています。家族の職場が昭島市から遠いので、私が単身赴任することにしました。

第二の変化は、いま申し上げたとおり、2年前に昭島教会の牧師になりました。前回は千葉英和高等学校で聖書を教える常勤講師でした。今回は昭島教会の牧師であると共に、明治学院中学校東村山高校の非常勤講師です。非常勤講師は1年契約です。契約期間は明日3月31日までです。契約が更新されるかどうかは明後日4月1日まで非公開です。更新されそうかどうかは私の顔でご想像いただきたいです。今日はマスクをしているのが残念ですが。

さらに、第三の変化としてカウントするのは早いのですが、と言いますのは、これも公開可能になるのは明後日4月1日だからですが、もうひとつ別の学校でやはり聖書を教える非常勤講師をすることが内定しています。学校の名前を言うのもフライングですので、やめておきます。

それより前に、これはすでに確定していることですので第三の変化だと言えますが、2年前の2018年4月から昨年2019年3月まで1年間、牧師をしながらアマゾン八王子フルフィルメントセンターで肉体労働のアルバイトをしました。30年前に東京神学大学を卒業してから教会の牧師しかしたことがありませんでしたので、この第三の変化が人生最大の意味を持っています。

個人的な近況報告が長くなって申し訳ありません。申し上げたかったのは、前回と比べて今回の私は非常にパワーアップしています、ということです。最も大きな変化は、アマゾンで筋肉がつきました。クマと戦っても勝てそうな気がします。

さて、今日朗読していただいた聖書の箇所は、マタイによる福音書26章の63節と64節です。ここに記されているのは、わたしたちの救い主イエス・キリストが十字架にかけられる前の夜、弟子たちと共に最後の晩餐をなさった後に逮捕され、大祭司カイアファの屋敷に集まった祭司長たちと最高法院の議員による裁判をお受けになった場面です。

今わたしたちは「受難節」を過ごしています。それで、この箇所を選ばせていただきました。大事な点は、イエスさまが「黙り続けておられた」(63節)と記されているところです。

直前の節に「そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。『何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか』」(62節)と記されているとおり、イエスさまは何を言われても、沈黙しておられました。

大祭司が「お前はメシアなのか」と尋ねてきたときだけ、「それは、あなたが言ったことです」(63節)と答えておられます。これで分かるのは、イエスさまは一切口を閉ざして、ひとことも何も言うまいと心に誓っておられたわけではない、ということです。

もし言うべきことがあれば言う姿勢でおられました。しかし、言うべきでないことについては、沈黙なさっていました。

なぜイエスさまが沈黙なさっておられたかは、イエスさまに教えていただく以外にありません。しかし、思い当たることがないわけではありません。それを一言でいうと、あくまでも私なりの理解ですが、このときイエスさまはだれかをかばっておられたということです。

それはもちろん、イエスさまが何かをお語りになることによって不利な立場に立つ人々です。その人々は、大きく分けるとふたつのグループに分かれると私は理解します。

第一のグループはイエスさまの弟子たちです。今日の朗読箇所の前後に記されているとおり、使徒ペトロがイエスさまの裁判の様子を見に、大祭司カイアファの屋敷の庭まで来ていました。そのことを、イエスさまはご存じでした。マタイによる福音書は記していませんが、ルカによる福音書に「主は振り向いてペトロを見つめられた」(22章61節)と記されています。だからこそ、ペトロは号泣したのです。

自分が近くにいることをイエスさまはご存じだったと分かったので泣いたのです。イエスさまのことを三度も「知らない」と言っているペトロの声が聞こえていたかもしれないのに、「おい、お前、おれだけ置いて逃げるな、卑怯者」とペトロにおっしゃらなかったイエスさまのお気持ちが分かったからこそ、ペトロは泣いたのです。

しかし、それだけではありません。もうひとつのグループがあると私は理解します。皆さんを驚かせてしまうかもしれません。もうひとつのグループは、その場所にいた祭司長と最高法院の議員たちです。その人々に対して、イエスさまは「かばう気持ち」をお持ちでした。だからこそ、イエスさまは沈黙しておられました。

どういうことでしょうか。イエスさまを苦しめている相手を、イエスさまがかばっておられたと私は言っています。そんなことがありうるでしょうか。しかし、わたしたちもそういうことを全く考えたことがないだろうかと自分の胸に手を当てて考えてみるとよいのです。ただし、そこで必ず、別の次元の事柄が入り込んで来るだろうと思います。

私を苦しめている人々がいる。しかし、その人々が、まさにいま、私を苦しめることにおいて罪を犯している。私が何かを言えば言うほど、その人々がうそをつき、でたらめを重ねる。偽証の罪を増やしていくことになる。その罪をこれ以上その人々が犯さないように、私は沈黙する。こういうことをわたしたちが、いまだかつて一度も考えたことがないだろうかと、自分の記憶を探ってみたらよいのです。私は「ある」と思います。

この文脈で私の話に戻すのはよろしくないかもしれません。しかし、もうひとつ変化がありました。第四の変化です。それは、千葉英和高校で働いた翌年の2017年4月から2018年3月までの1年間、「無職」を味わったことです。それは苦しい一年でした。

しかし、なぜそうなったのかについては割愛します。私が自分を正当化しようと思えばいくらでもできます。あえて「沈黙」します。考えてもみてください。教会の牧師たちが苦しみに合うことがあるとしたら、ほとんどは「教会で」受ける苦しみです。しかし、そんな話を牧師である者が教会の外に出すことはできません。神の御前で恥ずかしいことです。そこで牧師は、教会を「かばう」必要があります。

かっこうつけたいのではありません。イエスさまと自分を横に並べて誇るつもりもありません。「沈黙」には自分を守る意味もあります。「あの人が悪い」「あの教会が」「あの牧師が」と言い出せば、きりがありません。相手も必ず反論してくるでしょう。報復が起こるでしょう。

そういうのを「泥仕合」と言います。私の手元にある『広辞苑』は古い第4版だけです。その中に「泥にまみれて争うこと。転じて、互いに相手の秘密や弱点や失敗を暴露し合う、みにくい争い」と定義されています。

この「みにくい争い」をイエスさまは、祭司長や最高法院の議員にさせたくなかったのです。その人々も「神に仕える」立場にある人々です。その人々の泥仕合は「神の前で」恥ずかしいことです。だからこそ、イエスさまは「沈黙」なさったのです。そのように私は理解します。

イエスさまは弟子たちをかばい、御自分を十字架につけて殺そうとしている人々さえもかばい、おひとりで十字架を背負われました。「そこに愛がある」と、最初の教会の人たちが信じました。新約聖書の著者たちもそのように信じました。わたしたちはどのように信じるべきでしょうか。「それは各自で決めることです」としか、私には言いようがありません。

しかし、これもかっこうつけて言うつもりはありませんが、わたしたちがやはり、自分の胸に手を当てて思い出す必要があります。いまだかつてただの一度でも、「泥仕合」で問題が解決したことがあったでしょうか、なかったのではないでしょうか、ということを。「互いに相手の秘密や弱点や失敗を暴露し合う、みにくい争い」(広辞苑第4版の「泥仕合」の定義)のことです。

一時的には、すっきりした、せいせいした、溜飲が下がった爽快感を味わえるかもしれません。しかし、その次の瞬間は地獄です。いずれ報復されることを覚悟しなければならないでしょう。何の解決にもならないことは目に見えています。

東京プレヤーセンターで私の3回目の出番があるかどうかは分かりません。しかし、もし次回のチャンスをいただくことができるなら、さらにパワーアップして帰って来たいと願っています。

(2020年3月30日、東京プレヤーセンター礼拝、御茶ノ水クリスチャンセンター404号室)

2020年3月22日日曜日

香油を注がれた主

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-5)

ヨハネによる福音書12章1~8節

関口 康

「イエスは言われた。『その人のするままにさせておきなさい。』」(7節)
 
おはようございます。今日もマスクをしたままでお許しください。そして先週と同じように、時間を短縮してお話しいたします。

今わたしたちは受難節を過ごしています。わたしたちの救い主イエス・キリストの御受難を覚える季節です。しかしまた、折しもわたしたち自身が苦しみを味わっています。

わたしたちが味わっているのは「不安」の苦しみです。それは決して小さいものでも軽いものでもありません。世界がこれからどうなっていくかをだれひとり知りません。

だからこそ、今のわたしたちに最も必要なのは「心の平安」です。それは安心であり、平和です。そして、安心してもよいだけの「根拠」です。それが無い、あるいは分からないから、偽りの情報に翻弄されたりしています。

しかし、なんとかして、自分の心に強く言い聞かせてでも、落ち着きましょう。冷静であることが大事です。

いま私の心にしきりに去来する言葉があります。それは、16世紀ドイツの宗教改革者マルティン・ルターが言ったとされながら出典は不明であるとされている「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、私は今日りんごの木を植える」という言葉です。

「世界が滅ぶ」などという言葉を今の状況の中で使いたくありませんが、大事なのは後半です。「私は今日りんごの木を植える」です。出典が不明である以上、マルティン・ルターの言葉だと断言することはできませんが、とにかく大事なことが言われているのは確かです。

どれほど不安なときも、明日世界が滅亡することが分かったとしても、そんなことはどうでもいいことだと軽く考えて、そんなことよりも神さまのおられる天国だけを見上げていればよいのだ、それでいいのだというようなことを私が言いたいわけではありません。そんな考えはよぎりもしません。

そうではありません。「わたしは今日りんごの木を植える」のです。落ち着いて、日常的な地上の事柄に取り組み、汗を流すのです。労働のたとえが含まれているかもしれません。働いて疲れて横になれば、ぐっすり眠ることができるでしょう。

今日朗読していただいた聖書の箇所に記されているのは、「過越祭の六日前に」(1節)イエスさまがベタニアという村に行かれ、ひとつの家庭に迎えられ、食事をなさった場面です。

そこにマルタ、マリア、ラザロの3人姉弟がいました。末の弟のラザロについては、病気にかかり一度死んだのにイエスさまによってよみがえらされたという驚くべき出来事があったことが、ヨハネによる福音書の11章1節以下にかなり詳しく記されています。

マルタとマリアについては、ルカによる福音書10章38節から42節に出てくる話がよく知られています。今日の箇所にも記されていますが、マルタは「給仕」の役回りだったようです。

そして妹のマリアは、ルカによる福音書に描かれていることとしては、お姉さんが給仕している最中でもイエスさまの前に座り込んで、じっと話を聞く。それでお姉さんの怒りを買ってしまうタイプの人でした。

この3人姉弟をイエスさまは心から愛しておられました。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(11章5節)と、ひとりひとりの名前を挙げて記されているとおりです。

そして、その3人と共にイエスさまは「過越祭の六日前に」食事をなさいました。六日後が過越祭であることは、イエスさまはもちろんマルタもマリアもラザロも知っていました。過越祭にもイエスさまは食事をなさいました。それが、12人の弟子たちと共に過ごされた「最後の晩餐」です。

ベタニアの3人姉弟の家で食事の前だったか、最中だったか、終わってからだったかは今日の箇所だけでは分かりませんが、マリアが半ば唐突に「純粋で非常に高価なナルドの香油」を一リトラ(約326グラム)持ってきて、イエスさまの足に塗り、自分の髪でぬぐいました(3節)。

もし食事の前あるいは最中だったとしたら、強烈な香りで食事がぶち壊しになったと考えられなくもありません。もしそうだとしたら、そういうことを後先考えず、迷惑をかえりみず、唐突にできてしまうマリアは、なんらかの配慮が必要な存在だったかもしれません。

そこで腹を立てたのがイスカリオテのユダでした。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(5節)と言いました。

「1デナリオン」は、当時の労働者の1日の賃金です。それの300日分です。ひとりの労働者のほぼ年収です。

なぜ、それほど高価な香油がその家にあったのかは分かりません。憶測はよろしくありませんが、いろいろ想像できなくはありません。

それをマリアはイエスさまにささげました。お金に換えて別のものにしてではなく、ナルドの香油そのものをイエスさまのために使いました。「なぜそんなことをするのか、もったいない」とユダのようなことは考えないで。「純粋で非常に高価なナルドの香油」そのものをイエスさまに、マリアはささげました。

もっとも、ユダは「貧しい人々のことを心にかけていたから」そのように言ったわけではないと、ヨハネによる福音書は説明しています(6節)。別の理由があったのだ、と。しかし、この点を掘り下げていきますと別の話になりますので、今日は割愛いたします。

そのときイエスさまは、「この人のするままにさせておきなさい」とおっしゃいました。「わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから」(7節)と。

お金の使い道の話にしてしまうのは単純すぎるかもしれません。しかし、こういう使い方なら意味があるが、そういうことなら意味がないと、わたしたちもしょっちゅう考えたり議論したりします。

イエスさまのために使うのは無駄でしょうか。イエスさまへの愛と敬意、そして信仰のために、価値あるものを差し出すことは無意味でしょうか。イエスさまは、マリアのささげものを喜んでくださいました。わたしたちのささげものをも喜んでくださるでしょう。

他人(ひと)がすることを「それは無駄だ無意味だ」と非難することは、わたしたちもついしてしまうことです。社会や個人の経済が不安定なときはなおさらです。しかし、ここで最初の話に戻します。社会や個人が不安なときにこそ必要なのは「心の平安」です。

今日わたしたちが教会に集まってきたのは、それを得るためだったのではありませんか。私もそうです。他のどんな方法でも得ることができない「心の平安」を、ここ(教会!)に来れば得ることができると思ったからこそ集まってきたのではありませんか。私もそうです。

どうやら今日わたしたちが植えている「りんごの木」は「教会に来ること」でした。それが無駄だ無意味だと、イエスさまは決しておっしゃいません。

今申し上げていることに、今日の礼拝出席をお控えになっている方々を責めたり裁いたりする意味は全くありません。教会としての姿勢は「決して無理をしないでください」と毎週の週報に繰り返し書いているとおりです。

自宅で待機しておられる方々のために、そして全人類のために、共に祈ろうではありませんか。

(2020年3月22日、日本キリスト教団昭島教会主日礼拝)