2018年8月26日日曜日

主の祈り


マタイによる福音書6・9~13

関口 康

「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。』」

私も夏休みをとらせていただきました。木曜日の「聖書に学び祈る会」を2週続けて休会しました。「説教要旨」を作るのを2週分サボりました。旅行に出かけることはできませんでしたが、映画を2本観ました。ドクターヘリの活躍を描いた「コード・ブルー」と、昔のテレビドラマ「スパイ大作戦」の現代版「ミッション:インポッシブル」です。のんびりしすぎたことをお詫びします。来月から気合いを入れます。

今日取り上げるのは「主の祈り」です。このテーマについてこの教会でお話しするのは初めてですが、過去に牧師をしていた教会で繰り返しお話ししてきました。過去の説教原稿はすべて保管しています。それを引っ張り出して読み直しました。同じことを申し上げる部分もあるのをお許しください。

この祈りは新約聖書の2箇所に出てきます。マタイによる福音書6章9~13節と、ルカによる福音書11章2~4節です。両者を比較すると分かることが2つあります。

第1に、文脈が異なります。マタイでイエスさまがこの祈りを教えられた相手は複数の「弟子たち」(5章1節)です。ルカでは「弟子の一人」(11章1節)に教えておられます。その弟子が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」とイエスさまにお願いし、それにお応えになる形で、この祈りを教えられました。

第2は、ルカの主の祈りはマタイのそれよりも短いです。どこに違いがあるかを具体的に言うのは長くなるのでやめます。好ましいと思うのは両者を無理やり一致させようとしていないところです。しかし、強調点に違いがあると考えるのは可能です。私にとって興味深いのは、ルカの主の祈りには「天」も「地」も出てこないし、「悪い者」も出てこないことです。

この違いが何を意味するのかについて思い当たることがあります。「天」と「地」、また「悪い者」がいるとすれば反対側に「善い者」もいることになりますが、そういう世界観の基本構造は「上下関係」に近いということです。

そのような「天」と「地」との差や、「善い者」と「悪い者」を対比させるような垂直的な世界観がマタイの主の祈りに見え隠れしています。しかし、ルカの主の祈りには上下関係を示唆する垂直的な世界観を表わす言葉が出てきません。水平的な世界観に立っているように見えます。

しかし私は、どちらのほうがよいかという話をしたいわけではありません。代々の教会が重んじてきたのは、マタイの主の祈りです。私が教えたミッションスクールでは、1年生の最初の聖書の授業でマタイの主の祈りを学ぶことになっていました。学校礼拝の中でそれを唱えるからです。

私がこれまでいろんなところで主の祈りについてお話ししてきた中で強調してきたのは、主の祈りの「目標」は何かという問題です。主の祈りを唱えて生きるわたしたちがめざすべき先はどこかという問題です。そしてその結論は、主の祈りの目標は「地上」であるということです。

その「目標」が最もはっきり示されているのが、第3の願いです。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」。

「天で御心が行われる」のは当然のことです。「天」は神のおられるところを指すからです。神のおられるところで神の御心が行われるのは当たり前です。極端に言えば、天国で御心が行われることについて、わたしたちがあえて祈る必要はありません。人が祈ろうと祈らなかろうと、神は天で御自身の力を遺憾なく発揮なさるでしょう。

しかし、「地上」は別です。地上では神の御心は人の目と心から隠されています。よく分かりません。よく分かるのは、我々が生きている現実世界には神がどこにもおられないかのようだということです。神の恵みであると言われる信仰も希望も愛も喜びも、まるで現実世界とは全く無関係であるかのようだということです。

だからこそ、わたしたちは「地の上にも御心が行われますように」と祈る必要があります。主の祈りの「目標」が「地上」であると申し上げたのはその意味です。

主の祈りには全部で6つの祈りがあります。第3の願いの趣旨は「我々が生きている地上の世界が天国さながらになりますように」という祈りです。それは地上の世界は全くそうではないということの表明でもあります。地上には悲しみと嘆きが満ちています。だからこそ、わたしたちは「神の御心が地上で実現しますように」と祈るのです。それは「この地上の現実が変革されますように」という意味になります。

しかし、逆の言い方をすれば、すでに天国にいるかのように完全に変革された新しい世界となったそれは今の我々の悲惨な現実とは全くかけ離れたものかと言うと、そうではありません。今の現実から「罪が取り除かれる」だけです。それ以外の変化はありません。地上の世界から罪が取り除かれたら、そこは天国です。面白くもおかしくもないかもしれませんが、そうとしか言いようがありません。

たとえば、多くの人が違和感を覚えるヨハネの黙示録という書物があります。あの書物が描き出す天国を異様だと感じる人は多いかもしれません。天国があまりにも色彩鮮やかにカラフルに描かれているからです。天国は無色透明ではありません。金、銀、財宝でギラギラ輝いています。まるで世俗的な天国です。聖書の世界は意外なほどそういうところがあります。わたしたちの「常識」を再点検する必要がありそうです。

「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」の「地にも」の「も」は、ついでに、という意味ではありません。全く違います。御心が天で実現するのは当たり前のことなのですから、主の祈りの趣旨としては「地」のほうが「天」よりもはるかに大事です。主の祈りの「目標」は「地上」にあります。

第2の祈りの主旨も同じです。「御国が来ますように」。「御国」と「天国」は同じです。多くの人は「天国」はどうしても「行くところ」であると考えてしまいます。ゴー・トゥー・ヘブンと。しかし、イエスさまが弟子たちに教えた祈りは「天国」が「来ますように」(キングダム・カム)です。イエスさまが教えてくださった天国は「行く」(ゴー)ところではなく「来る」(カム)ところです。

これは「天国が地上へと近づいてくる」という思想です。空中に浮かぶ巨大な大陸のようなものが落ちてきて地上の世界をめちゃくちゃに破壊してしまうような情景を思い浮かべることができるかもしれません。

つまりそれは、地上の現実が天国さながらになることを求める祈りです。地上の現実の変革を求める祈りです。地上の現実には罪と悪に満ちている。この罪を取り除いてください。この地上を天国にしてくださいという祈りです。

第1の願いの趣旨も同じです。「御名が崇められますように」と祈ります。「主の御名を崇める」のは人です。第一の願いの主語は人です。「崇める」の原意は「大きくする」であると言われます。転じて、重んじること、尊重すること、礼拝することを意味します。

ですからそれは、地上の世界に神を礼拝する民がもっと多く引き起こされますようにという祈り、あるいは「教会」が多く生み出されますようにという祈りと矛盾しません。

第1から第3までの願いは、いわば理念です。主の祈りの思想の枠組みです。そのすべての視線は「地上」へと向いています。そしてその第1から第3までの願いにおける理念が、第4から第6までの願いにおいて具体的に展開されます。

第4の祈りは、毎日の食事の確保の問題です。子どもたちは毎日の食事が当たり前に出てくると思っているかもしれませんが、大人と親にとってそれは当たり前のことではありません。どうすればそれが可能になるかを大人たちは知っています。第四の祈りの趣旨は、ただ食事だけの問題ではなく、生活全体が整いますようにという祈りです。

第5の祈りは、対人関係における罪のとがの赦しの問題です。第6の祈りは、罪を犯すことへの誘惑からの救出の問題です。これらはすべて「地上の事柄」です。地上で解決されるべき問題です。

しかし、私がこの話をしますと必ず返ってくる反応があります。「がっかりしました」と言われます。「この嫌で嫌でたまらない世界を我慢して生きてきて、やっと天国に行けると思っていたら、天国も地上も大差ないと言われる。そんな天国なら私は行きたくありません」と実際に言われました。

高校生たちの反応は違いました。かなり面白がって聞いてくれました。「宗教じみていない」とか言ってくれました。「天国に逃げ込む」考えが私にないからです。すべての解決は死後の世界にある、という思想が私にはありません。

なぜ私が「天国と地上が大差ないこと」を強調して申し上げるかには理由があります。私は牧師として、教会の方々から個人的に伺ったお話を外部に漏らしたりはしません。しかし、もう20年以上前のことで、しかも私はこれまでいくつかの教会で牧師をしましたので、どこの教会の話であるかを特定できないと思いますので、実例をご紹介します。

熱心なキリスト者のご夫婦でいらした方のご主人が病気で亡くなられた直後に、ご夫人が重い精神の病にかかられ、希死念慮にとらわれました。その方が「早く天国に行きたい。早く死にたい。死ねば主人に会えるんでしょ。私も早く天国に行きたい」と私に何度も訴えられました。

そのときです、「天国と地上は大差ない」ということを全力で語る世俗的な牧師になってやろうと心に誓うものがあったのは。「この地上から罪が取り除かれたら、そこはもう天国なのだから、わたしたちは一刻も早く死にたいなどと言わないで、一刻も早く地上から罪が取り除かれるために神さまに全力で働いてもらえるように祈りましょう」ということを一生懸命に語り始めたのは。

早く天国に行きたいという願いを持つ方と、変身願望を持っておられる方は必ず私につまずきます。ごめんなさいと謝るしかありません。

しかし、よいではありませんか。「そこにはもはや罪がない」という以外の何も変わらない、そんなつまらない天国には行きたくないと思われるなら、生きていこうではありませんか。しつこく、粘り強く、しがみついてでも。「御心が地上で実現しますように」と祈り続けていこうではありませんか。

(2018年8月26日)

2018年8月19日日曜日

敵を愛しなさい


マタイによる福音書5章43~48節

関口 康

「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

4月から続けて学んで来ました使徒パウロのローマの信徒への手紙の学びを先週から中断して、マタイによる福音書に基づくイエス・キリストご自身の御言葉に目を向けています。今日の箇所に記されているのは、イエスさまがおっしゃった言葉の中で最も有名な言葉です。

どの御言葉が最も有名で、他はそうでないという言い方は一概にできないことは分かっているつもりです。多くの人の心にとどまり、忘れることができない、まさに衝撃的な言葉として有名であると申し上げておきます。

それは、先ほど朗読していただきました箇所の中にある「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)という言葉です。この中でも特に有名なのは、前半の「敵を愛しなさい」という言葉です。

これがなぜ多くの人の心にとどまり、忘れることができない言葉であるかといえば、このようなことは、わたしたちには絶対にできないことだからです。

東京都三鷹市にある東京神学大学に私が入学したのは、今から34年前の1984年です。当時はご存命だった北森嘉造先生から学部1年の最初に受けた講義の中で、この「敵を愛しなさい」というイエスさまの御言葉について北森先生がおっしゃったことを、私は忘れることができません。

北森先生はこうおっしゃいました。「敵とは、絶対に愛することができない相手のことである。絶対に愛することができない相手のことを『愛しなさい』と言われているのは、だれにも絶対にできないことを『しなさい』と言われているのだ」と北森先生は説明されました。34年前の記憶ですので、完全に正確ではないかもしれませんが、間違ってはいないと思います。

北森先生のおっしゃるとおりであると私は受け容れてきました。北森先生がおっしゃったから正しいと受け容れてきたのではありません。イエスさまがおっしゃったのはわたしたちにできる範囲のことではないということを、北森先生の説明で気づかされ、納得したという意味です。

だれにも絶対にできないことを「しなさい」と言われるのは、たしかに無茶苦茶なことです。支離滅裂だと感じる方がおられるかもしれません。しかし、もしこれが、努力すればできる範囲内のことを「しなさい」と言われているのだとすれば、努力してできるようになった人と、努力しないからいつまでもできない人に分かれるでしょう。

そして、努力してできるようになった人は、努力しないからいつまでもできない人に優越感を抱き、見くだすようになるかもしれません。いつまでもできない人は、できるようになった人に劣等感を抱き、卑屈になるかもしれません。

しかし、もしこれが、だれにも絶対にできないことであるとすれば、だれひとり優越感を抱くことはできないし、だれひとり劣等感を抱く必要はありません。「あなたは、まだできないのか。早くできるようになりなさい」などと、だれひとり指導的な立場に立つことができません。それでいいのだと思います。

しかし、ここで絶対に(という言葉をあえて使います)間違えてはならないことがあります。それは、イエスさまがおっしゃった「敵を愛しなさい」という教えがだれにも絶対にできないことであるとしても、だからといって「しなくてもよい」ということにはならないということです。できないことはしないというのは、失敗して恥をかき、屈辱を感じるのが嫌だからです。初めからしない、手を出さない。それで守れるのは自分のプライドだけです。自分の優越感だけです。

牧師も教師です。学校の教員と全く同じではないかもしれませんが、教える立場にあるという点では同じです。自分にできないこと、自分ができていないことを人に教えるとどうなるかを、よく知っています。「まずあなた自身が手本を見せてください。あなた自身ができるようになってから言ってください」と必ず言われます。

そう言われたときに教師がとってはならない最も悪い態度は、自分はできているふりをすることです。できていないのに。うそをつくことです。それは詐欺です。二番目に悪い態度は、自分ができないことについては「これはしなくてもよいことだ」と教えはじめることです。もしかしたら、こちらのほうがもっと悪いかもしれません。

このあたりでそろそろ、イエスさまはなぜこのようなことをおっしゃったのかという点に話を移していきます。今日の箇所に目を落としていただきますと、イエスさまは「敵を愛しなさい」とおっしゃる前に「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」(43節)とおっしゃっていることが分かります。

しかし、いわゆる「引証付き」の聖書をお持ちの方はすぐにお分かりになるのは、イエスさまが引用しておられるのは旧約聖書のレビ記19章18節ですが、そこには「敵を憎め」という言葉は見当たらないということです。それどころか、レビ記19章18節に記されているのは「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」という御言葉です。

「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」というのは、ご承知の通り、イエスさまが強調してお語りになった教えです。日本最古のプロテスタントのミッションスクールである明治学院(の高等学校)の校訓がこの教えです。英語でLove your neighbor as yourselfです。これは、旧約聖書の教えでもあり、イエス・キリストを通して新約聖書に受け継がれ、キリスト教会がとても大事にしてきた教えです。

しかし、ここでわたしたちが考えなければならないのは、「隣人とはだれのことか」という問題です。「隣人とはだれのことか」という問いかけを聴くだけで教会生活が長い方々は、ルカによる福音書10章25節以下に記されているイエスさまがおっしゃった「善きサマリア人のたとえ」をすぐに思い起こされるに違いありませんが、今日はそこまで話を広げないでおきます。しかし、内容は共通しています。そのことだけ申し上げておきます。

「隣人」とはだれのことでしょうか。旧約聖書のレビ記19章18節に、その定義はありません。しかし、「復讐してはならない」とは記されています。この復讐の問題が、理解の鍵になります。

復讐といえば、個人的な仇討ちから国と国との戦争までの範囲のことを考えなければならない問題ですが、旧約聖書の教えは両方を含んでいます。そして、古代社会の状況を考えれば、「隣人」の意味として、自分と同じ民族、自分と同じ国の人々すなわち同胞の範囲を超えた人々のことを指すことはまずありえないと考えられます。

つまり、少なくとも旧約聖書においては「隣人を愛しなさい」という教えは、守るべき家族、愛するべき同胞を愛することを指していたと思われます。

そしてその場合、だからといって、対立する敵国と戦争することによって復讐を果たしなさいというようなことを旧約聖書が教えたわけではないということも、先ほど指摘したレビ記19章18節を見ると分かります。

しかし、ここから先は難しい問題に立ち入ることになります。実際に復讐を果たすことをしてはならないと禁じられることと、それを果たすことをしなくとも心の中で感情的に相手に対して激しい怒りを覚え、憎しみを抱くことまで禁じられることとは別問題であるということです。

旧約時代に実際にどうであったかは私には分かりません。しかし、今日の箇所でイエスさまがおっしゃっていることの中に「隣人を愛し、敵を憎め」と言われていることから考えると、旧約時代において自分自身の同胞を愛することは、たとえ復讐を果たすことを実際にはしなくても、心の中で感情的に同胞以外の人々や敵国の人々を嫌い、憎しむこととがセットになっていたかもしれません。

急に話を飛躍させますが、野球でもサッカーでも、自分が心から愛するチームを持っている人の中に、そのチーム以外のチームを憎むことがセットになってしまう人がいます。人間の心理の中にそのような要素や現象があるように私には思えます。心理学を勉強なさった方は、その現象を学術的に何と呼ぶかをご存じかもしれません。

イエスさまが禁じておられるのは、それです。自分の愛すべき同胞、守るべき家族を愛することの裏側に姿を現わす、まさに自分の愛すべき同胞、守るべき家族の命を脅かす「敵」に対する「怒り」や「憎しみ」が禁じられています。

全くの素人考えですが、愛の感情と憎しみの感情は似ているところがあるような気がします。両方とも、強ければ強いほど心臓がドキドキします。血圧が上がります。興奮します。心臓にも脳にも負担がかかります。冗談のような言い方をしていますが、実際にはふらふらの状態です。重くなればまっすぐ立っていられません。身体も心も病んでしまいます。

「敵を愛すること」は北森先生が教えてくださったとおり、絶対に不可能なことかもしれません。「自分を迫害する者のために祈ること」も非常に難しいことであるのは間違いありません。

しかし、とにかく「祈ること」だけならば、かろうじてできるはずです。怒りと憎しみの感情が抑えられないほど湧いてきて、興奮して相手につかみかかり、大声で怒鳴りつけ、刃物を取り出して相手を切りつけたくなったとき、その衝動を抑えるために、自室に引きこもり、目を閉じ、腕を組み、神に祈る。そこまでならば、かろうじて、なんとかして、できるはずです。

そういうのは事なかれ主義の臆病者のすることかもしれません。「自分の家族や同胞の命を脅かす存在に対して激しい怒りと憎しみを抱き、勇敢に立ち向かうことこそ正義ではないか」という考えもあるでしょう。

しかし、とにかく落ち着く。冷静になる。「興奮しているこの私を、とにかく何とかしてください」と神に祈る。自分のために祈る。自分の助けを求める。「自分を迫害する者」のために祈るよりも前に。

乱暴なまとめ方かもしれませんが、今日の説教の結論は、とにかく落ち着け、ということです。興奮するな、ということです。冷静になれ、ということです。自分を落ち着かせるために自分のために祈れ。

そのことまでならば、なんとかなるでしょう。そこまでできたなら、これから私はどうすればよいかということが、興奮しているときよりも、はっきり分かるようになるでしょう。

(2018年8月19日)