2011年1月23日日曜日

カール・バルトの「第三項の神学」発言に対するファン・ルーラーのコメントについて

わたしの『教会教義学』のすべてはより聖霊論的な立場から書き直されなければならないだろう、というカール・バルトの最晩年の発言を知ったとき、ファン・ルーラーは「とんでもないことだ」と言って納得しなかった、というファン・ケウレン氏の文章を最初に読んだとき、私も最初は目を疑いました。逆ではないのかと思いました。もし言うなら「わが意を得たり!」ではないかと。

何度も何度も、ファン・ケウレン氏の論文の文章と、彼が引用したファン・ルーラー自身の文章と、オランダ語辞典の字句解説とを見比べて確認しましたが、間違いなくそのように書かれていました。

そこまで何度も確かめた上で、それではこの文脈でファン・ルーラーはなぜバルトの発言を「とんでもないことだ」と考えたのかを、私なりに考えてみました。それで思い至ったことは、ファン・ルーラーの「とんでもないことだ」の意味は、「バルト自身にそのようなことができるはずがない」ということであり、あるいは「何を今さら」ということだったのではないか、ということです。

その理由は単純です。

バルトが『教会教義学』の第一巻第一分冊を出版したのは1932年です。当時46歳。爾来バルトは1968年に82歳で亡くなる直前までの36年間、本書の執筆を続けました。

ところが、バルトの「第三項の神学」発言が飛び出したのは、バルトが亡くなる年、1968年です。『シュライエルマッハー選集』のあとがきとして書かれた「シュライエルマッハーとわたし」です(J.ファングマイアー著『神学者カール・バルト』加藤常昭・蘇光正共訳、日本基督教団出版局、1971年、83ページ以下)。つまりそれはバルトの文字どおりの「遺言」でした。

36年間かけて書いてきた9000ページ以上の本を、バルト自身が、82歳から「全部」書き直せるでしょうか。82歳のバルトにさらに36年間の寿命が与えられて118歳まで生きられるならば、可能性が全く無いとは言えない、かもしれない。しかし、それはまともに聞ける話でしょうか。ファン・ルーラーにとってバルトは人生の大先輩だったわけですが、「やれるものなら、やってみろ。できもしないことを易々と口にすべきではない」と言いたかったのではないでしょうか。

ファン・ルーラーのバルト批判は、ファン・ケウレン氏によると1933年11月にクバート教会の牧師になってまもなくの頃から始まっています。それ以来ファン・ルーラーは、バルトが1968年に亡くなるまでの35年間近くも、バルトと対峙し続けたのです。そのバルトが死の間際になって、自分の教義学は「全部」書き直されるべきだと言ったとなると、バルトを批判してきた人々が拍子抜けするに決まっています。おそらく、心底がっかりしたのです。

バルトがファン・ルーラーの存在を知っていたかどうかについて、バルトの著作を調べても分かりません。しかし、全く手がかりが無いわけではありません。バルトの「オランダの親友」K.H.ミスコッテが1951年に「自然法とセオクラシー」(Natuurrecht und Theokratie)という論文をドイツ語で発表し、その中でファン・ルーラーをやり玉に挙げ、露骨に批判しています。このミスコッテの論文を「親友」バルトが読まなかったはずがありません。つまり、バルトは1951年には、ほぼ確実にファン・ルーラーの存在を認識していたのです。

そして、その後も、ファン・ルーラーは『宣教(アポストラート)の神学』(1954年)、『キリスト教会と旧約聖書』(1955年)、『世界におけるキリストの形態獲得』(1956年)と、立て続けにドイツ語版の出版物を出しています。オランダ語が読めなかったと言われるバルトでも、ファン・ルーラーが何を考えているか、バルトに対して何を言わんとしているかくらいは、分かっていたはずです。

しかし、バルトは、ファン・ルーラーの存在を認識しながら全く無視し続けました。ユトレヒト大学神学部の教授として公然とバルト批判を始めたときから数えても、20年近くもバルトから無視され続けてきたファン・ルーラーにとっては、バルトが死の間際に何を言おうと、「何を今さら」という思い以外の何ものもなかったのではないでしょうか。