関口 康(東京神学大学4年)
序論
最近になって、パウル・ティリッヒの思想的発展は人間の主体性の宗教的再構築への関心によって動機づけられていた、ということが解明された。ティリッヒが再構築しようとした主体性とは、自立的主体を超え、それを、またその文化世界を神的な存在の根柢の上に再生させるような人間の主体性である。
そのことはティリッヒが現代における神律的文化の再建を目指して戦っている格闘の一側面にちがいない。ティリッヒは、われわれが継承してきた思想的伝統が唯名論的であることを問題視し、それが、世界観において、自然主義か超自然主義かといういずれにも満足しえない二者択一をせまるものであると考える。
自然主義か超自然主義かという二者択一は、彼にとって、啓示および自然的諸法則の侵害としての奇蹟についての超自然主義的観点への抵抗の道か、それとも自己充足的限定性としての自然主義的世界観への抵抗の道かという二者択一を意味し、両者ともティリッヒの神律概念にとって不適合である。トンプソンによると、ティリッヒの確信は「自然主義と超自然主義とのこの二分法は、唯名論的伝統固有のアンティノミーから生じるところの誤謬である」ということである。このアンティノミーを乗り越えることがティリッヒの神学的課題である。
このアンティノミーを克服するためにティリッヒが導入する方法は、いわゆる「認識の形而上学」であり、つまりそれは、認識行為の実存的性格の承認、存在と意味への問いにおける人間の実存的関わり合いの承認、である。唯名論的伝統における存在的歴史的主観と抽象的認識論的主観との混同、また存在論的客観と論理的客観との混同への傾向に端を発する世界と精神のリアリティについての疑念は、抽象的主観と抽象的客観との間に不自然な二分法を措定するが、然るに、現実的経験においてそれらは相関関係にあるのである。
従ってティリッヒは、存在と意味を問う「認識の形而上学」を神学に導入することによって、抽象世界における主観と客観の分裂を克服し、それによって人間の主体性の宗教的再構築を試みていると言ってよいであろう。そしてそれは、唯名論的伝統にとってかわる新しき世界観をわれわれに提供するものとなる。
ところで、ティリッヒにとって、人間の主体性の宗教的再構築及び神律文化の再建への要請とは、裏返してみるとそれらの崩壊が前提されているということを意味する。それはティリッヒの生の実存的状況が、ヨーロッパ的宗教支配文化の崩壊の最終段階においてあり、それに対する評価と対策においてまさに歴史的決断が神学者をして下されるべき時であったのである。そのような時にあって神学者は生について語る場合、思弁的抽象的には語り得ず、全実存をかけて語るのである。
ティリッヒが生について体系的に論ずるのは、彼の主著、『組織神学』の第四部門、「生と霊」の教説においてである。そしてそこに登場する「霊的現臨」(Spiritual Presence)の概念は、彼が提示する新しき世界観を解明するキイ・コンセプトである。
われわれは、ティリッヒの「霊的現臨」の概念を構造的に理解するために、第一章においてこの概念の歴史的位置づけを試みた後、第二章においてこの概念のティリッヒ神学における意味について論じたいと思う。
第一章 霊的現臨の歴史的位置づけ
(1)ルター主義的伝統において
ティリッヒの生がドイツ・ルター主義的環境を背景にして展開したことは、彼の神学的展開と霊的現臨の教説に根拠を与えた決定的要素とみなされるべきである。
彼の『自伝的考察』によると、当時のドイツ・ルター主義教会の有力者であった牧師を父にもつ彼にとって、幼少年期に過ごしたシェーンフリース、ケーニヒスベルクのルター主義的環境における「聖なるもの」の体験が「私のすべての宗教的および神学的研究の礎石になった」と述べ、また「宗教哲学において、私は、聖なるものの体験から出発し、そこから神の理念にいたったのであって、その逆ではない」と断言する。
彼の回想の中で言い表された、聖なるものの体験、すなわち「神的なるものの現臨体験」とは、もとよりルター主義の伝統的命題である「有限は無限を入れる」(finitum capax infiniti)という、いわゆるinfra Lutheranum(ルター的「下に」)の内容である。
このinfra Lutheranumとはカルヴァン主義とルター主義の論争という文脈において理解されてきたものであるが、カルヴァン主義の命題、「有限は無限を入れない」(finitum non capax infiniti)というextra Calvinisticum(カルヴァン的「外に」)の対立命題として、あらゆる有限なるものに現臨する無限者の観照、無限なるものの有限者の有限性の領域における内在を表現したものである。カルヴァン主義からすれば、ルター主義命題の「空間に関し容器のようにみなす見解」は単性論か汎神論として退けるが、ルター主義からすればカルヴァン主義は理神論であり二元論であるということになる。『自伝的考察』においてティリッヒは明らかに、現臨概念をルター主義的伝統のコンテクストの中で支持している。
ただし、ここで注意すべきことは、ティリッヒが現存する過去の宗教支配文化の残存形態の中に霊的現臨の顕現をみていることである。ティリッヒは霊的現臨を体験的に先取した上で、アポステリオリに霊的現臨の概念を組み立てたのである。
(2)神秘的実念論的伝統において
ドイツ観念論の課題が「カント哲学の克服」であったように、ティリッヒと彼の同時代人の多くもまたカント問題の解決に熱中していた。ティリッヒは『境界線の上で』のなかで「私自身の哲学的立脚点は、新カント主義、価値哲学、また現象学との批判的対話によって展開した」と述べている。1912年にティリッヒは、神学士号取得のために『シェリング哲学の発展における神秘主義と罪責意識』というシェリング研究を発表するが、そこで彼はシェリング哲学の価値を、カント問題の解決を示唆するという点に見出している。
明らかなことは、少なくともティリッヒの初期の段階において、自らの立場をカントからシェリングへという流れにおいて理解していたということである。それが後の彼の立場において当てはまるかどうかは議論のあるところである。しかしながらこのことにおいて彼が意図することは、カント問題のヘーゲル主義的本質主義的解決に対する批判である。ティリッヒは、第一次世界大戦の経験を通して、当時のドイツ国家の基礎づけが安易な同一性原理による統合によってできあがってきたことに気づいており、その時代の人々の人格的な苦悩と混沌がそれに意義を申したてていることの意味をよく知っていたのである。
カント問題は今日なお未解決である。ティリッヒが生涯シェリング主義者であったというようなことがたとえ支持し得ないとしても、彼がカントを思想的対論の相手と見なし、それを克服するために、シェリング、あるいはシェリング哲学と同じ方向性と性格づけをもった形而上学的な思想を導入しつつ、その難問と取り組んだということは確からしい。
カント問題とはティリッヒにとって、デカルトの懐疑主義の、カントによる方法論的正当化における問題性であった。それは換言すれば、現象と物自体の二元論であり、その統一的把握の根拠の欠如である。
この難問の解決のためにティリッヒは、デカルトからカントまでの批判的方法論的伝統と、ニコラウス・クザーヌスからシェリングまでの「神秘的形而上学的」伝統との総合を企てる。彼は『カイロスとロゴス 認識の形而上学的研究』において二つの伝統の対比について論じ「両者は相互補完的である」と述べている。彼が提唱する「メタ論理」(meta-logic)、すなわち「批判的弁証学的方法」(critico- dialectical method)とは二つの伝統の総合によるものである。
彼の霊的現臨の概念の形成のために重要である認識の実存的性格の承認は、後者の「神秘的形而上学的」伝統、すなわち中世における「神秘的実念論」(mystical realism)の伝統からひき出されたものである。特にティリッヒにとって、ニコラウス・クザーヌスの主要命題である「反対の一致」(coincidentia oppositorum)が重要である。
ティリッヒは『キリスト教思想史』講義において、「反対の一致」について次のように説明する。「有限なるすべてのもののなかに無限者が現臨する。すなわち宇宙全体の創造的統一を基礎づける力が現臨する。同じ仕方において有限が潜在性として無限のなかに含まれる。世界のなかで神が展開する一方、神のなかに世界は含まれる。有限は無限のなかに潜在的に存在する一方、無限は有限のなかに現実的に存在する。両者は相互のなかにある」。ここでも彼は、ルター主義の命題である「有限は無限を入れる」と全く同じことを思い描いている。つまり彼の霊的現臨の概念にとってこの命題のもつ意味は第一義的と言ってよいであろう。
ティリッヒの『組織神学』における現臨概念の展開は、従って、彼の「批判的弁証法的方法において、またそれによる「カント哲学の克服」の試みにおいて、あるいは、第一次世界大戦における原理的統合性の崩壊を再建する試みにおいて、極めて重要なものであると考えることができよう。そして彼にとってまず第一になされるべきと考えているのは、「有限は無限を入れる」という命題と、認識の実存的性格とへの承認であった。
この議論をさらに深めていくために、次のような考察をすることもできる。それは、一般にこれまではルターとクザーヌスの間には直接的にはもちろん、歴史的にも相互連関はないとされてきたが、両者に共通する「隠れたる神」(Deus absconditus)の思想をめぐる諸研究等を通じて、ルターがクザーヌスから間接的にせよ影響を受けていると結論づけることができる、という学説である。この学説がわれわれに与える有利性は、何よりも、ティリッヒが行なったルター主義と神秘的実念論との総合は、無理矢理なされたものではなく、もともと存在した歴史的連関の現代における継承として受けとることができるということである。
しかし、その学説において指摘されるルターとクザーヌスの思想的起源としての中世ドイツ神秘主義は、ティリッヒの現臨概念の起源としても考えうるのではないかとの推論も成立することになる。
ヴェンツラフ=エッゲベルトの『ドイツ神秘主義』の研究によると、ドイツ神秘主義は要するに「神秘的合一」(unio mystica)でもって説明されうるのであり、これはフィヒテやシュライエルマッハーの中にも見出され、ドイツ・ロマン主義を解明する鍵としてみなされるものである。このことは、われわれの関心からすると、ティリッヒの試みが結局中世的なものへの逆行、退行を意味するのか、それとも近代的なものの真の克服としての新しい世界観への格闘を意味するのか、という根本的評価に関わる問題を含むのである。
われわれは以上の考察によって、ティリッヒの霊的現臨の概念の歴史的位置づけについて、一応概観することができたとしよう。
次に、われわれはティリッヒの主著である『組織神学』第三巻第四部門における「生と霊」の教説のなかで霊的現臨の概念がどのような意味を与えられ、展開されているかについて考察する。
第二章 霊的現臨の意味
(1)精神の意味
ティリッヒは、現代における神律的文化的総合の再建の試みにおいて「精神」(spirit)の概念を吟味する。ヘーゲル同様、ティリッヒは、文化を主観的精神の領域、すなわち彼自身が創造され、その中で彼が「精神」として自己自身を意識するようになるという、人間の「第二の本性」に属するものとみている。例えばヘーゲルやヘルダーにおいて、文化とは語りや行為性における精神の自己表現であったように、特にドイツ的定義づけにおいて精神と文化は相互に関係づけられている。ティリッヒもまたこの関係づけのなかで両者を考えている。彼は「生と霊」の教説のはじめの部分において、精神の次元における生の多次元的統一についての議論を行い、その中でヘーゲルの精神概念について説明している。
「『霊』(Spirit)という言葉が宗教的領域で保存されてきたという事実は、部分的には宗教的領域における伝統の強さによるものであり、また部分的には(たとえば「創造主なる御霊よ、来たりませ」という讃美歌が示すように)、神の霊から力の要素を取り去ることは不可能であるということによるものである。God is Spiritは決してGod is MindともGod is Intellectとも訳すことができない。ヘーゲルの『精神現象学』さえもPhenomenology of the Mindとは決して訳され得なかった。ヘーゲルの精神の概念は意味と力とを統一している」。
ティリッヒの精神の概念は、ヘーゲルとのこれらの親近性とその評価とにもかかわらず、ヘーゲル主義的に解釈されるべきではない。むしろティリッヒ自身、積極的にヘーゲル主義を克服しようとする。それは彼によってわざわざ「本質主義的」な考察であるとの断りの下に論ぜられた「生の多次元的統一」を、「霊的現臨」論の前に置き、「霊的現臨」についての原理的、歴史的な説明をひと通り終えた後、もう一度、生の統一性の問題、つまり宗教、文化、道徳の問題について論じるという方法がとられたことの中に示されている。言い換えるならば、「霊的現臨」とはヘーゲル主義的本質主義的総合の曖昧性を超克し、生の諸次元的要素に「霊的」という語を冠するための概念だということである。
ティリッヒは霊的現臨についての説明のはじめのところで、精神という言葉を使用することの目的について二点挙げる。第一は、人間を人間として性格づけ、道徳、文化、宗教において実現されている生の機能に適切な名称を与えるため、第二には「神の霊」(divine Spirit)または「霊的現臨」というシンボルに用いられている象徴的素材を提供するためである。そして、精神の次元における人間的生の統一の経験が、霊としての神(God as Spirit)また神の霊について語ることを可能にする。したがって精神とは、生を通しての神的なるものの認識への形而上学的承認の契機である。「神の霊の教義は、精神を生の一次元として理解することなしには不可能であっただろう」。
ヘーゲルの精神概念との違いは、恐らく次の点に存するであろう。ヘーゲルのいう「真無限」(die wahrhafte Unendlichkeit)とは、具体的無限者が有限者をその内に含むことを意味する。有限者の自己認識とは自己を「概念」として知ることであり、それは絶対者である無限者がその内に含む有限者的対立の自覚を媒介にして真に絶対的な同一性を自覚することである。概念は意識の弁証法的運動の終極において成立するものであるが、その弁証法的運動の主体は精神としての絶対者である。
とすると、概念において精神はまさに自己として捉えられることになる。ヘーゲルの絶対者はこのようにして無限と有限との漠然とした内包理論によって基礎づけられており、結局無限と有限との間の存在論的差違は無くなってしまうのである。
量義治が結論づけるように、それは「有限者が無限者となること」を意味する。「ドイツ観念論の展開は無限者的立場への徹底であると言うことができるであろう。それは近代の人間中心主義的思想の観念論的表現である。…したがってドイツ観念論はカント哲学を克服した哲学ではなくて、カント哲学から堕落した哲学であると言うこともできよう」と言われるのと同様、ヘーゲルの絶対精神は神学的にも支持し難いものである。
ティリッヒは、無限的と理解される神的霊(Spirit)と有限的な人間精神(spirit)との間にはっきりとした存在論的差違を措定する。ティリッヒは次のように述べる。「もし神の霊が人間の精神に突入すれば、それは神の霊が人間の精神の中にとどまっていることを意味しない。それは神の霊が人間の精神をそれ自身から追い出すことを意味する。神の霊のinは、人間の精神にとっては、outである」。このことは彼にとって、霊的現臨によって把えられた存在の状態を表現する「脱自」(ecstasy)の意味である。
またティリッヒは「有限者は無限者を強いることができない」(The finite cannot force the infinite)ということにおいて有限性原理を命題化する。ティリッヒは脱自理論を用いることによって有限性原理を保持しつつ、神的なるものと人間的なるものの相互連関を論じることにおいてヘーゲルを克服せんとしているのである。
しかしティリッヒは以上のことが再び超自然主義的二元論へと逆戻りしないように、無限と有限との本質的一致ということを「一時的」「予備的」と断りつつ支持している。「有限は無限を入れる」が、しかし「有限は無限を強いることはできない」。
(2)脱自の意味
前節でふれたように、ティリッヒの霊的現臨の概念にとって「脱自」は重要である。彼は脱自理論を新約聖書の聖霊理解、特にパウロから学んでいると考えているところが非常に興味深い。彼は次のように述べる。
「パウロは第一義的に聖霊の神学者であった。彼のキリスト論と終末論とは、彼の思想のこの中心点に依存している。彼の信仰と恩恵による義認の教義は、この中心的な主張、すなわちキリストの出現と共に、聖霊によって創造された新しい事態が到来したということを支持し、弁護するためのものであった。パウロは霊的現臨の経験における脱自的要素を強く主張した」。
今日の聖書学においてこれが支持され得るかどうかは疑問であるが、ティリッヒがパウロの祈りについて「このような祈りは人間の精神には不可能である。…しかし、神の霊には、人間を通して祈ることが可能である」と述べていることが、彼の霊と精神との存在論的差違性の議論からのみ導き出されているものではないことは確からしい。
ティリッヒはパウロにおいて構造性と脱自性との一致をみているが、このような議論をもちだすことの目的は、現代におけるカトリシズムとプロテスタンティズムにおける聖餐理解の偏重性に対して警告を与えるためであった。カトリシズムにおける聖霊の制度的理解、プロテスタンティズムにおける聖霊の道徳的理解は、いずれも教会の世俗化をひき起こす要因となってしまうのである。
そしてまたもう一つの目的は、霊的現臨において、またそれが惹きおこす人間精神の脱自において、主観‐客観構造が超克され、またそれによって新しき認識が創造されるということを支持するためである。「脱自的経験の最善にして、もっとも普遍的な例は祈りの形態である。…神に向かって語るということは、神を祈祷者の対象とすることを意味する。しかしながら、神は同時に主体となることなしに、客体となることはできない。…祈りは主観-客観の構造が克服されている限りにおいて可能である」。ティリッヒは、脱自的可能性としての祈りが、教会的領域の統一性の鍵としてみられるのみならず、普遍的文化的領域における無限と有限の主観‐客観構造のアンティノミーを統一する鍵とみているといってよいであろう。
(3)霊的共同体における主体性
ティリッヒの霊的現臨の概念は、祈りと結びつけられて論じられるのと同様、伝統的キリスト教的諸概念と結びつけられる。霊的現臨の媒介としての伝統的サクラメントが取り上げられ、またその規準としての聖書が取り上げられる。あるいは霊的現臨の内容としての信仰と愛とが論じられる。しなしながら、ティリッヒは、そうした伝統的キリスト教的なるものによる定義づけをもって排他主義的なことを考えてはいない。しばしば彼が「霊のみが霊を見分ける」と述べるのは、霊の自由をさまたげるようなあらゆる試みに対して批判的スタンスをとっているからである。
その際、彼の「霊的共同体」(Spiritual Community)の理念が問題になる。彼は「霊的共同体」と「教会」(Church あるいはchurch)とを分別して考えるからである。
ティリッヒは、人類における霊的現臨の創造性を三つに分ける。1.神的霊の中心的顕現への準備としての人類全体における創造の働き、2.神的霊の中心的顕現そのものにおける創造の働き、3.かの中心的出来事の創造的衝迫の下における霊的共同体の出現における創造の働き、である。これらはティリッヒにおいて時間的経過と結び合わされ、宗教史的、また救済史的なプロセスとして考えられている。言うならば、霊的現臨の自己展開としての宗教史ということになろう。
この第三の時間区分に属する、霊的現臨が創り出す霊的共同体とは、「新しき存在」(New Being)であり、「曖昧ならざる生の顕現」「曖昧ならざる神の愛の創造」であるとされる。そこで顕示される曖昧ならざる生は、キリストとしてのイエスにおいて、またキリストを待望した人々において顕われた曖昧ならざる生と同一である。ゆえに「霊的共同体」と「教会」は同一ではない。ティリッヒは「教会」という言葉を宗教的曖昧性において把えていて、彼がこれを用いる時は「潜在的」(latent)とか「隠された」(hidden)とかいう語と共により隠喩的に考えている。
「霊的共同体」を「教会」と同一視しないティリッヒの立場は例えば次のような言葉にあらわれている。「イスラム教の礼拝共同体の中に、モスクの中に…潜在的霊的共同体がある」。ティリッヒはこのことによって、キリスト教の宣教活動と関連して、「最も重要なことは、異教徒、ヒューマニスト、ユダヤ人たちを、潜在的霊的共同体のメンバーとして考え、外部から霊的共同体へと招かれている全くの異邦人たちと考えないことである」と述べる。
しかし霊的共同体にはその性格づけを記述し判定する基準があるのであって、それが霊的現臨の内容としての信仰と愛である。
新しき存在の共同体として、霊的共同体は信仰の共同体である。霊的共同体は、信仰によって神的生の神聖性に参与するがゆえに、聖である。霊的共同体は教会の不可見的な霊的本質である。
新しき創造の共同体として、霊的共同体は愛の共同体である。霊的共同体は聖なるものであって、愛を通して、神的生の神聖性に参与し、宗教的共同体、すなわち教会に聖性を賦与する。霊的共同体は教会の不可見的な霊的本質である。
以上のことが意味することは、すべての人間的な宗教的営為に先行する、創造主なる霊的共同体の顕現としての霊的共同体、ということであって、宗教に先立つアプリオリな性格をもつ理念としての霊的共同体性ということとなる。とすると、ティリッヒにおいて、この霊的共同体性とキリスト教性(Christianity)との関係はどうなるのかという問いがあらわれるに違いない。
第一章においてわれわれがすでに見たように、ティリッヒはルター主義的環境の中で育まれ、その中において神的なるもの、すなわち霊的現臨の体験からアポステリオリに記述する帰納論的アプローチを行うのである。言わば彼はキリスト教の内部から全ての発言をしている。霊的共同体性の論議についても、確かに彼はそれを他宗教の中にも潜在すると述べはするが、彼のパウロ的聖霊理解への親近性、あるいはペンテコステの物語へのかなり立ち入った言及等から考えるならば、原始キリスト教に対する親近性から導き出されたものと考えられるであろう。つまり霊的共同体性とは原始キリスト教性と言い換えてもさほど問題にならないものということになる。
従って霊的現臨の顕現としての霊的共同体とは、原始キリスト教的な共同体を意味し、それが今日営まれているキリスト教に潜在的であるところの曖昧ならざる生の実現の場であるということができよう。そしてティリッヒはキリスト教の内側にとどまりつつ、原始キリスト教的なるものを今日のキリスト教の反省材料とみなして、より曖昧ならざる共同体の実現をめざしたのであろう。しかも、他宗教においてさえ霊的共同体性を見出すことによって、彼は排他主義的いき方を退けつつ、開かれたキリスト教的共同体について考えを深めていったものと思われる。
そしてティリッヒは、霊的現臨の顕示の下にもう一度精神的生、すなわち道徳、文化、宗教の再統合を試みる。「この統一は人間の本質において、前もって形成され、実存の諸条件の下で分裂し、霊的共同体が宗教的・世俗的グループにおいて生の曖昧性と戦う中で、霊的現臨によって把えられている」と述べる時、かの「有限は無限を入れる」は逆転している。すなわち「無限は有限をとらえる」(infinitum capax finiti)。
この無限と有限との逆転関係はいわば「神律的相互関係」である。無限が有限を把えることによって、有限は曖昧ならざるものとなり、確固たる有限を意味するようになる。これが人間としての主体性の根柢となるのである。無限と有限との相互の関係づけが主観‐客観構造を超克し、真の主体性の確立をめざす道を示すのである。つまり主体性の根柢とは霊的現臨なのである。
結論
以上の考察は、パウル・ティリッヒが重んじる霊的現臨の概念についての把握としてはまだ不充分にちがいない。ただし、すでにわれわれが見てきたことにおいていくつか結論的に述べることができよう。
1.ティリッヒは現代社会の分裂、疎外状況の根柢に、不自然な二分法を生みだす唯名論的世界観があるとし、唯名論的伝統に対する批判をすることによって、原理的統合性の再建を目指す。
2.しかしその崩壊している原理的統合性の再建、回復はヘーゲル主義的本質主義的にはなし遂げられない。実存的にたち向かわねばならない。
3.再建の鍵は霊的現臨である。これが相対主義的な不確実性の時代において、確固として存在的に在したもうのである。われわれキリスト者たるの主体性は新しい存在によってのみささえられる。
伝道者は霊的現臨によってのみ立つことができる。御霊が共に在したもうて、私をおつかわし下さったということなしに、どうして確固として説得的に語り得ようか。語ること全てがキリスト者の主観的な見方であると批判されて、霊的現臨の体験なしにそれ以上語り続けうるか。主体性の確立とはまさにキリスト者としての自覚を深めることに外ならないのである。そしてそれは「創り主なる御霊よ、来たりませ」と祈りつつ歌いつつなされることなのである。
(東京神学大学組織神学学部演習論文、1987年)