2023年12月24日日曜日

天に栄光、地に平和(2023年12月24日 クリスマス礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 261番 もろびとこぞりて

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「天に栄光、地に平和」

ルカによる福音書2章8~20節

関口 康

「『あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」

クリスマスおめでとうございます!

今日の聖書箇所は、ルカによる福音書2章8節から20節です。イエス・キリストがお生まれになったとき、野宿をしていたベツレヘムの羊飼いたちに主の天使が現われ、主の栄光がまわりを照らし、神の御心を告げた出来事が記されています。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである」(10節)と、天使は言いました。

天使の名前は記されていません。ルカ福音書1章に登場するヨハネの誕生をその母エリサベトに告げ、また主イエスの降誕をその母マリアに告げた天使には「ガブリエル」という名前が明記されていますし、ガブリエル自身が「わたしはガブリエル」と自ら名乗っていますが(1章19節)、ベツレヘムの羊飼いたちに現われた天使の名前は明らかにされていません。同じ天使なのか別の天使なのかは分かりません。

なぜこのようなことに私が興味を持つのかと言えば、牧師だからです。牧師は天使ではありません。しかし、説教を通して神の御心を伝える役目を引き受けます。しかし、牧師はひとりではありません。世界にたくさんいます。日本にはたくさんいるとは言えませんが、1万人以上はいるはずです。神はおひとりですから、ご自分の口ですべての人にご自身の御心をお伝えになるなら、内容に食い違いが起こることはありえませんが、そうなさらずに、天使や使徒や預言者、そして教会の説教者たちを通してご自身の御心をお伝えになろうとなさるので、「あの牧師とこの牧師の言っていることが違う。聖書の解釈が違う。神の御心はどちらだろうか」と迷ったり混乱したりすることが、どうしても起こってしまいます。

もし同じひとりの天使ガブリエルが、エリサベトにもマリアにもベツレヘムの羊飼いたちにも、さらにマタイ福音書に登場するヨセフにも、東方の占星術師たちにも現れたということであれば、天使自身は神ではありませんが、情報源が統一されている点で、聴く人や状況によって神の御心の内容が違って聴こえることは起こらないので、不統一よりは安心できるかもしれません。

ところで、ベツレヘムの羊飼いに現われた天使が「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(10節)と言いました。しかしこれは翻訳のひとつの可能性です。原文には4つの単語が並んでいます。「ユーアンゲリゾーマイ・ヒューミーン・カーラーン・メガレーン」ですが、最初の「ユーアンゲリゾーマイ」だけで「喜びを告げる」(announce glad tidings)という意味になります。「ヒューミーン」は「あなたがたに」(to you)。「カーラーン」は「喜び」(joy)。そして「メガレーン」が「大きな」(great)です。つまり「喜び」が“ダブって”いるということです。さらに「大きな」(great)で“ブースト”されています。とても大きな喜びです。

その内容は「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである」(11節)です。この言葉を厳密に理解することを求める方々は、「あなたがたのために」(to you)とは誰のためかが気になるはずです。大別して3つの可能性が考えられます。

第一に、「民全体」(10節)をイスラエル民族に限定して「あなたがたイスラエル民族のために」。その場合は、イスラエル王国の再建を目標とする人にとっての喜びを意味します。

第二に、ベツレヘムの羊飼いに限定して「あなたがたベツレヘムの羊飼いのために」。その場合は、差別の対象になっていた羊飼いの苦境と関係し、弱い立場の人にとっての喜びを意味します。

第三に、すべての限定を解除して「全人類のために」。まさにすべての人にとっての喜びです。クリスマス礼拝のメッセージとして最もありがたいのはこの可能性でしょう。私も同意します。ただし、自分の読みたいように読む、というのは危険な面があることは覚えておくべきです。

しかし、第三の読み方にも根拠があります。天使の言葉の中で「救い主」(ソーテール)、「主」(キュリオス)、「メシア」(クリストゥス)と、それぞれ意味が異なる3つの称号がイエスさまに当てはめられています。「救い主」(ソーテール)と「主」(キュリオス)はどちらもローマ帝国の皇帝が自ら名乗り、周囲に呼ばせた称号です。その称号がイエスさまに当てはめられたのです。それはつまり、地上におけるソーテールでありキュリオスである存在は、あの独裁者ローマ皇帝ではなく、今宵生まれたイエスさまである、ということが明確に示されたことを意味します。

そして「メシア」(ギリシア語でクリストゥス)は、ユダヤ人たちが長い歴史の中で待ち望んだ存在です。つまり天使が「あなたがたのために救い主(ソーテール)がお生まれになった。この方こそ、主(キュリオス)メシア(クリストゥス)である」と羊飼いたちに告げている言葉の中に出てくる3つの称号の意味は、ユダヤ人のためにも、異邦人(=「ユダヤ人以外の人々」を指す)のためにも、すなわち「全人類」(=ユダヤ人+異邦人)のためにイエスさまはお生まれになった、という意味であると理解できます。

天使は最後に「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(14節)と言いました。これも翻訳のひとつの可能性です。しかも、この言葉は歴史や国境を越えて多くの人に誤解されてきた事実があることを指摘しておきたいと思います。

特に誤解されてきたのは後半の「地には平和、御心に適う人にあれ」です。私も誤解していたことを正直に告白します。「御心」は「神の御心」です。しかしそうなりますと、「神の御心に適う人(だけ)に平和が訪れますように」という意味なのかと考える人が必ず現れるでしょう。「神の御心に適わない人には平和は訪れなくても構わない」と、神は天使を通して羊飼いに告げたのか、聖書を通してそのことをわたしたちに告げているのか、と考える人が必ず現れるでしょう。

全く違います。完全に正反対です。しかし、翻訳をやり直す必要はありません。「御心に適う人」と「御心に適わない人」がいる、という読み方をやめるだけで済みます。「御心に適う“人”」は「全人類」を指していると理解すれば、問題は解決します。

日本語聖書で「御心」と訳される伝統になっている「エウドキア」の意味は「神の喜び」です。この言葉には旧約聖書の背景があります。特に創世記1章31節に「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とお喜びになったことと関係しています。

全人類が「神の喜び=神の御心」(エウドキア)に適った存在です。例外も限定もなく「全人類に平和がもたらされますように」と歌う天の大軍の歌声がベツレヘムの夜空に響き渡ったことを想像しながら、今夜のクリスマスイヴ音楽礼拝を共にささげたいと願います。

(2023年12月24日 クリスマス礼拝)

2023年12月17日日曜日

マリアの召命と献身(2023年12月17日 待降節第3主日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌21 175番 わが心は

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「マリアの召命と献身」

ルカによる福音書1章26~38節

「マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。」

(2023年12月17日 聖日礼拝)

2023年12月10日日曜日

救い主の降誕を喜ぶ(2023年12月10日 待降節第2主日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 231番 久しく待ちにし

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「救い主の降誕を喜ぶ」

マタイによる福音書2章1~12節

関口 康

「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった、学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」

(2023年12月10日 聖日礼拝)

2023年12月3日日曜日

神は我々と共におられる(2023年12月3日 待降節第1主日)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 241番 来たりたまえ われらの主よ



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「神は我々と共におられる」 

マタイによる福音書1章18~25節

関口 康

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

(2023年12月3日 聖日礼拝)

2023年12月1日金曜日

A.ファン・リューラー著『伝道と文化の神学』(長山道訳、教文館、2003年)

教文館からファン・リューラーの訳書の二冊目が出版された。待望の神学論文集である。長山道訳『伝道と文化の神学』(2003年)には、「伝道の神学」(1954年)と「世界におけるキリストの形態獲得」(1956年)が収録されている。いずれも、原著者自身がドイツ語で著したものからの邦訳である。前者にはオランダ語版があるが、後者のそれは存在しない。従って、本訳書は「重訳」ではない。

二つの論文を短い文章で紹介することは難しい。第一論文だけで許していただきたい。

表題を「伝道の神学」と訳すことには無理がある。アポストラートはクレーマーの用語である(58頁)。13頁の一文をオランダ語版から訳せば、「オランダ改革派教会の教会規程には明白なアポストラート的特徴がある。H. クレーマーの偉大な働きが承認されたのである」となる。

ファン・リューラーは1942年のオランダ改革派教会大会で「教会規程の原理に関する委員」に選任され、1951年の施行までの九年余、教会規程の改訂作業に取り組んだ。H. オーステンブリンク・エヴァースによると、その委員会での議論の一つが、クレーマーのアポストラート概念をどう理解するかであった。ファン・リューラーは、個人的回心を中心に置くクレーマー的アポストラート論に難色を示し、むしろ、ひとを特定の政治的生活様式に至らしめ、文化の形態を造りかえていくこと(再キリスト教化)へと強調点をシフトさせたアポストラート論の線で、委員会を説得した。ファン・リューラーは、牧師・大学教授としての経歴に加えて、キリスト教政党「プロテスタント同盟」の幹部としても働いた人であり、より直接的な政界参加を志向するアポストラート理解を持っていた。これに最も近い日本語は「伝道」よりも「宣教」であると思われる。

ファン・リューラーは、「宣教」(アポストラート)を、終末論・予定論・聖霊論・教会論・人間論という五つの視点から理解するよう試みる。

第一の終末論的視点における強調点は、「イエス・キリストご自身、受肉、十字架、復活と昇天は、世界に関わる神の御国活動におけるいくつかの時点に過ぎない」(16頁)にある。キリストのすべての出来事は、終末へと向かう途上の単なる通過点にすぎない。終末においてキリストは、母マリアから摂取した「肉」を脱ぎ捨てる。キリストの受肉はアダムの堕落へのリアクションであり、当座の応急手当にすぎない。これが「メサイアの間奏曲」と呼ばれる彼独特の主張であり、批判者はもっぱらこの点を問題にする。しかしこの主張は、「伝道はイエス・キリストとその教会を見ているだけでなく……神ご自身とその世界を見ている」(17頁)という認識を導き出す。もしわれわれ教会人が宣教においてキリストと教会に関心を抱くだけならば、教会の存在とわざが自己目的化している証左であろう。ファン・リューラーは「教会への引きこもり」を警戒する。われわれは、宣教においてこそ教会の外なる世界を凝視し、歴史を導く神のみわざに関心を持たねばなるまい。

第二の予定論的視点における強調点は、「神ご自身が働いている。神ご自身が最終決定をなさる」(21頁)という視点からすべての宣教活動を捉えることの大切さにある。宣教とは生ける神とこの世の人々とのふれあい(aanraking)である。また、宣教において教会は、予定論的に言うなら、世の中で役立つ「道具」として、神に用いられる。「教会は神の御旨にもっぱら仕えなければならない」(24頁)。

第三の聖霊論的視点における強調点は、「聖書が、神の言葉が、神ご自身が存在するだけではない。人間も存在する。人間は、人間の自由と独立において、聖霊論的に尊重される」(28頁)ことにある。従来、上記第二の予定論的視点が「しばしば神学者たちを誘って、強調を、一面的に神に置くようにさせる」(26頁)危険性をはらんできたことをファン・リューラーは知っている。「神がすべてであり、人間は無である」と語ることがカルヴァン主義の立場であるかのように思い込んできた人々を知っている。しかし、聖霊論が正当に機能しているかぎり、神学がその種の過ちに陥る心配はない。「聖霊はわれわれの内に良心を、すなわちcon-scientia、つまり神と共に知り神と共に判断することを、創造し、あるいは呼び起こす」(27頁)。聖霊論的に言えば、ローマ・カトリック的神人協力主義に至るのでもなく、われわれ人間は神のパートナーである、と語ることができるのである。

これらの視点に基づく「宣教」理解によって導き出される一つの重要な帰結は、とくに異教徒に相対する際の「謙遜」の必要性を訴える具体的提言に表れている(38頁など)。終末論と予定論がキリストと教会の役割を限定し、聖霊論が人間尊重の論理を形成する。そこに「キリスト教的謙遜」の根拠が生まれる。彼の神学の真骨頂が、ここにある。

再び翻訳の問題に触れておく。39頁10行目「キリスト論的には混合物について語ることはできない」の後、オランダ語版とJ. ボルト訳の英語版にはある(オランダ語版で数えて)10数行にも及ぶ重要な文章が、日本語版には見当たらない。確認を求めたい。

訳者あとがきの「ファン・リューラーはリンデボームからトレルチを学んだ」(というR. W. レイツェマの説)は根拠薄弱である。卒業論文『ヘーゲル、キルケゴール、トレルチの歴史哲学』の指導教授W・アールダースからトレルチを学んだと見るほうが理にかなっている。「オランダ改革派教会は・・・二つの派に分けられる」とあるが、少なくとも「四つ」はあり、もっとある。「ファン・リューラーが属しているのは後者の保守的な派」とあるが、通常は前者のほうが「保守的」と言われる。「『伝道の神学』の原著は」以下の文章も不正確である。1978年版は再録であり、オランダ語版原著はドイツ語版原著の翌年には出版されている。

(『形成』、日本基督教団滝野川教会、第395・396号、2003年12月1日発行、14~15頁に掲載されました。)