日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
讃美歌21 434番 主よ、みもとに
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「信徒の成長」
フィリピの信徒への手紙1章1~11節
関口 康
「そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」
今日は日本キリスト教団の定める「信徒伝道週間」の初日にあたり、お2人の教会員の証しを伺いました。ご準備くださったお2人に心から感謝申し上げます。
今日の聖書箇所はフィリピの信徒への手紙1章1節から11節までです。この手紙は使徒パウロが書いたものです。今日の箇所に記されているのは、パウロがフィリピの信徒のためにささげた祈りの言葉(9~11節)と、その祈りをささげた理由(3~8節)です。
パウロはフィリピの教会のみんなのことを思い出すたびに、神に感謝し、喜びをもって祈っていると言います(3~4節)。なぜなら、あなたがたが最初の日から今日まで福音にあずかっているからだと言います(5節)。
「最初の日」(5節)の意味は、パウロとフィリピ教会が最初に出会った日を指していません。その意味で受け取ると、私パウロと出会ったことで初めてあなたがたがイエス・キリストの福音を受け入れることができた、その日から今日に至るまで、ということにならざるをえませんので、まるでパウロの伝道者としての個人的な力量について書いているかのように読めてしまいます。
「福音」は宣べ伝えられた途端に伝道者の手を離れます。また、手を離さなければなりません。伝道者は「福音」そのものが持つ力を信頼し、「自分が宣べ伝えた、自分が教えた」という思いを捨て、教会の信徒を自分の支配から解放しなければなりません。
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)の「その方」は、神です。福音宣教の主体は、神です。神はご自身が始めたことを最後まで成し遂げてくださり、完成してくださる方であるとパウロは言っています。パウロが始めたことをパウロが完成するわけではありません。
12節の「福音の前進」も、私パウロが福音を前進させた、という意味ではないし、あなたがたフィリピ教会に連なるみんなが福音を前進させた、という意味でもありません。福音それ自体が、自らの力で前進した、という意味です。福音そのものに躍動的な意志がある、ということです。
いま申し上げていることは、私が声を大にして言わなくても、比較的長いあいだ、教会生活、信仰生活を続けて来られた方々はよくご存じです。自分自身のことを振り返っても、家族や友人、教会の中で出会った方々のことを思い返しても、たとえば、教会が立てた伝道目標として、毎年何人を教会に招き、受洗者を何人生むかを決めて、その通りになったことがあったでしょうか。仮にあったとして、教会が計画通りに右肩上がりに教勢を拡大し、財政的にも潤い、社会的にも大きな影響を及ぼすようになっていく、というようなことが、どれほど続いたでしょうか。
もし続いていないのであれば、それはわたしたち人間の失敗でしょうか。「偉大でない」伝道者の力量不足が教会衰退の原因でしょうか。そのようなことを教会の中で言い争うこと自体が教会衰退の原因かもしれないと、手を胸に当てて考えてみることには、意味があるかもしれません。
パウロの祈りは9節以下です。注目すべき言葉は「あなたがたが清い者、とがめられるところのない者になるように」(9節)です。「清い者」と「とがめられるところのない者」はニュアンスが違います。前者は内面の状態を指し、後者は目に見える外面の状態を指します。「ひたむきに神を求めること」と「非の打ちどころのない生活を送ること」です。それが「知る力と見抜く力を身に着けて、愛がますます豊かになった」(9節)状態を指していることは明らかです。
これで分かることは、パウロは、イエス・キリストの福音は、信じて歩む人間の性質に内面的にも外面的にも変化をもたらすと信じているということです。信徒は福音と出会った最初の状態のままにとどまりません。人間としての性質が善きものへと変化し、成長します。それがパウロの信仰であり、代々の教会の教えです。「聖化」(sanctification)と言います。
このように言うと、教会の内からも外からも非難の声があがります。教会の外からは「それはキリスト者の傲慢である」とか「教会に通っている人より通っていない人のほうがはるかに誠実で高潔な生活を送っている」と。
教会の内からは、今日の箇所の「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて」の意味はあくまで「キリストの義」であって「人間の義」ではない。人間にはキリストの義が転嫁されるに過ぎず、人間はどこまでも罪人であり続ける、と。
教会の外からの非難については、私たち教会の反省材料として甘んじて受けるほかありません。しかし、教会の中の我々は、今日の箇所の「義の実」の意味を過小評価すべきではありません。たとえば、「日本基督教団信仰告白」(1954年制定)の「聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ」は、今日の箇所が典拠です。
「実」(英語のフルーツ)は、キリストの義が人間へと転嫁された「結果」を指します。原因と結果を混同してはいけません。「結果」は、聖霊(「聖霊」は「神」です)によって「与えられる」ものですが、聖霊の働きにおいては、人間の意志と主体性が排除されないことが重要です。
「あふれるほどに受けて」は新共同訳(1987年)ですが、以前の口語訳(1954年)でも、最新の聖書協会共同訳(2018年)でも「満たされて」と訳されています。新共同訳のように「受けて」と訳すほうが人間の主体性を後退させて、神の主体性と恩恵の一方性を強調することができますが、それではパウロの意図に反します。「知る」のも「見抜く」のも、「愛する」のも、「清い者となる」のも「とがめられるところのない者」となるのも、すべて人間が主体だからです。
人間の意志も感情も主体性も奪われて、まるで夢にうなされているかのように「させられる」のではありません。わたしたちの身代わりにイエス・キリストが「知り」「見抜き」「愛し」「清い者となり」「とがめられるところのない者になってくださった」のであって、私たち人間自身には何の変化もないと、パウロは言っていませんし、考えてもいません。
「キリストの義」が転嫁された結果としての「実」(フルーツ)は、人間の側の主体的な行動の変化です。それもまた十分な意味で神の恵みです。人間が自分の努力で自分をつくりかえることはできません。神の導きと助けなしに自分の力で成長したと言い張るなら、傲慢のきわみです。またそれは事実ではありません。しかし、教会に何年、何十年と通っても、何の変化も無かったというのであれば、それはそれで寂しいことだと言わざるをえません。
「決してそうではない」ということを、今日証しをしてくださったお2人が教えてくださったと信じます。「この教会に通って良かった」とわたしたち自身が心から思えるような教会を、神の導きと助けのもとに、共に作り上げていくことを祈ろうではありませんか。
(2023年10月15日 聖日礼拝)
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「豊かさと貧しさ」
ルカによる福音書16章19~31節
関口 康
「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。」
今日の聖書箇所に記されているのは、イエスさまのたとえ話です。登場する人物は3人です。
ひとりは「ある金持ち」です。名前は明かされません。西暦3世紀のエジプトの写本では名前が付けられていますが、後代の加筆です。名前がないことに意味があると考えるほうがよいです。名前があるとこの人物の言動が他人事になるからです。イエスさまの意図はむしろ、この金持ちは自分のことだと、自分に当てはめて受け取るように、聴衆(読者)に求めることにあります。
2人目には「ラザロ」という名があります。多くの方はヨハネによる福音書11章に登場するマルタとマリアの弟のラザロを思い出されるでしょう。しかし、今日の箇所のラザロは架空の人物です。とはいえ、大事な点があります。イエスさまのたとえ話の中で名前がある登場人物は、今日の箇所のラザロだけです。また、ラザロという名前は、ヘブライ語で「神が助ける」という意味の「エルアザール」をラテン語化したものです。この名前に大きな意味があると考えることができます。
3人目はアブラハムです。ユダヤ人の先祖です。しかし、アブラハムは血縁としてのユダヤ民族の父であるだけでなく、使徒パウロがローマの信徒への手紙4章で詳しく論じているとおり、キリスト者にとっての信仰の父でもあります。ただし、今日の箇所でアブラハムはやはりイエスさまのたとえ話の中に登場しているにすぎません。しかも、登場場面は死後の世界です。
「ある金持ち」は「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」(19節)とあります。「紫の布」は上着で、「麻布」は下着。上下とも高価な衣服を身に着けていた、という意味です。「ぜいたくに遊び暮らす」は毎日宴会を開いていた、という意味です。
金持ちの門前に「ラザロ」が横たわっていました。「できものだらけ」と訳されているのは医学用語で「ただれ」という意味です。ラザロが金持ちの門前にいた理由は「その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた」(21節)からです。ただし、書いてある通りに理解すべきなのは、ラザロはその家の食卓から落ちる物で腹を満たしたいと「思っていた」だけで、実際には、食卓から落ちる物すらもラザロの口に入るものはなかった、ということです。
しかも、当時の金持ちは、自分の(汚れた)手を拭くためにパンの切れ端を使い、使用後は食卓の下に投げ落としていたそうですので、「食卓から落ちる物」の中にそれが含まれている、と考えることができます(J. エレミアス)。「犬もやって来ては、そのできものをなめた」(21節)とあるのは、当時のユダヤ人にとって「犬」が不浄な動物と考えられていたことと関係あります。
ラザロの苦痛は肉体的にも精神的にも激しかったに違いありません。しかし、彼の口からの苦情については何も言及されていません。金持ちは自分の家の門前に横たわっている人がいることを知っていましたし、その名が「ラザロ」であることも知っていましたが、何も与えず、何もしませんでした。
そして、2人の人生が終わりました。ラザロは「神が助ける」という名前にふさわしく「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれ」ました(22節)。天国です。「アブラハムのすぐそば」(アブラハムの胸)はユダヤ人にとって最高の名誉ある場所です。そこは涼しいそうです。
「金持ちも死んで葬られ」ました(22節)。ラザロは「葬られた」と記されていませんので、葬儀はなかったかもしれません。金持ちのほうは葬儀が行われましたが、行き先は「陰府(よみ)」(ハデス)でした。いわゆる死後の世界です。ただし、このたとえ話において「陰府」は中間状態を指しています。最後の審判の判決が下る前の「未決」(pending)の状態の人々が置かれる場所です。
陰府の金持ちから、アブラハムのすぐそばのラザロの姿が見えたそうです。ただし、「はるかかなたに」(23節)とあるとおり、距離が遠い。それで「大声で」、金持ちがアブラハムに「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」と(24節)と言う。
丁寧な言い方をしているようですが、ラザロに対してはもちろんアブラハムに対しても事実上命令しています。金持ちの習性かもしれません。彼が「ラザロ」の名前を知っているのは、ある意味で驚きです。ラザロが自分の家の前にいたのだから名前を知っていて当然かもしれませんが、生前のラザロに対して何もせず、見て見ぬふりしていました。自分が陰府の業火で苦しんでいるときだけ、ラザロの名前を呼び、しかも、自分に仕えさせようとする。そうするようにラザロに言ってほしいとアブラハムに依願するような言い方で、アブラハムに対しても事実上命令する。
この傲慢な金持ちに対するアブラハムの対応はとても冷静で公平でした。天において報いを受けるのはラザロであってあなたではないということを、この金持ちに明確に示しました。そもそもの前提として、この人が金持ちだったのは地上の人生においてだけで、死後は無一文です。死んだ後まで貧富の差は無いし、財産争いもありません。そういうのはすべて地上の事柄です。
金持ちとアブラハムの対話の中で特に大事な点は、金持ちが、自分が陰府(ハデス)の火で焼かれても仕方ないほどひどい仕打ちをラザロにしたことを認め、自分の救いは断念したうえで、まだ生きている5人の兄弟たちには「こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」(28節)とアブラハムにお願いしたとき、アブラハムが「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」(29節)と答えているところです。
「モーセと預言者」とは、わたしたちの呼び方では「旧約聖書」のことです。「モーセ五書」と呼ばれる創世記から申命記までが、ユダヤ教の聖書の第1部「律法」(トーラー)です。そしてユダヤ教の聖書の第2部が「預言者」(ネビイーム)、第3部が「諸書」(ケトゥビーム)です。ここで「モーセと預言者」はトーラーとネビイームを指しています。
「彼らに耳を傾けるがよい」(29節)とアブラハムが答えたと、イエスさまがおっしゃっている、という点を忘れないようにしましょう。これはイエスさま御自身の教えです。わたしたちは律法主義を避ける勢いで、律法を否定する危険があります。自分は贅沢三昧で、貧しい人を見下げ、愚弄し、無視するような人生を送らないために旧約聖書の律法が役に立つことをイエスさまが教えておられます。
イエスさまはマタイ福音書の「山上の説教」では「心の貧しい人々は、幸いである」(マタイ5章3節)とおっしゃっていますが、ルカ福音書の「地上の説教」では「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6章20節)とおっしゃっています。後者は明らかに物質的な貧困を指しています。「貧しさ」自体は「悪いもの」と今日の箇所(ルカ16章25節)で呼ばれています。しかし貧しい人を「神が助ける」(エルアザール=ラザロ)と信じることができるのが、わたしたちの信仰です。
助けを求めている人を助けなかった人々が、自分の救いと報いを求めるのは、虫が良い話です。豊かな人々のためにもイエスさまは死んでくださいました。しかし、それを免罪符にして贅沢三昧を続け、貧しい人を見下げ、愚弄し、無視するのがキリスト教なのかと自問することが求められています。
(2023年10月1日 聖日礼拝)