2022年2月20日日曜日

起きて歩く(2022年2月20日 聖日礼拝)


「起きて歩く」関口康牧師
日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 6番 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

「起きて歩く」

マルコによる福音書2章1~12節

関口 康

「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」

今日の箇所に描かれているのは、イエスさまがおられた家に4人の男が中風の人を運んで来て、その家の屋根によじ登り、イエスさまがおられる辺りの屋根をはがして穴を開けて、病気の人が寝ている床を吊り降ろして、イエスさまに助けを求めた話です。

想像するだけでぎょっとする話です。その家はガリラヤ湖畔のカファルナウムにありました。シモン・ペトロの実家だったと考えられます。中風の人にとっても4人の男たちにとっても他人の家です。その家の屋根を破壊したというのですから驚きです。

しかしイエスさまは4人の行動に感動なさいました。他にもたくさんの人がその家に集まっていてイエスさまに近づくことができないので、緊急手段としてそこまでのことをしたこの人たちの、病気の人への熱い思いを、イエスさまが汲み取ってくださいました。

それでイエスさまは、その人たちの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました(5節)。これはどういう意味でしょうか。中風の人が何か罪を犯したのでしょうか。それは具体的に何の罪でしょうか。それを考える必要がありそうです。

他人の家を破壊した罪でしょうか。他にも大勢の人がいたのに順番を待つことができず、追い抜いてイエスさまのもとにたどり着いた罪でしょうか。そんなことを言うなら、救急車は罪深いという話になりかねません。別の意味を考えるほうがよさそうです。

私も調べました。イエスさまが「赦される」と、「赦す」の受動形を用いて主語をおっしゃっていないのは、当時のユダヤ教の言葉遣いだったそうです。ただし、ユダヤ教の場合、主語は必ず「神」であり、「神があなたの罪を赦す」という意味です。しかし、イエスさまがおっしゃったのはその意味だと考える必要はないという解説を読みました。主語は「神」ではなく、イエスさまご自身であり、「私があなたの罪を赦す」とおっしゃっているというのです。

また、別の解説(カール・バルト)に、イエスさまはこの言葉をその人の罪を“否定する”意味でおっしゃっているとも記されていました。しかし、その場合は、「あなたには罪がない」という意味ではなく、「あなたの病気の原因はあなたの罪ではない」という意味になるでしょう。

そして、その意味として最も近いか全く同じと言えるのは、ヨハネによる福音書9章1節以下のイエスさまのみことばです。生まれつき目の見えない人について、その原因は何か、だれが罪を犯したからかと尋ねたときイエスさまがお答えになったことです。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9章3節)。

そういうことをイエスさまがおっしゃったからこそ、そこに居合わせた律法学者たちが反応しました。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(7節)。そのように彼らが考えました。

ここでわたしたちが見落としてはならないのは律法学者の反応の中にある「口にする」という言葉です。イエスさまが「あなたの罪は赦される」と“言う”ことです。「言う」と「考える」は違います。律法学者が反応したのは、イエスさまがそれを“言った”ことに対してです。

イエスさまは口を滑らされたわけではありません。自覚的・意図的に「わたしがあなたの罪を赦す」と宣言されました。この点が当時のユダヤ教と激突したと考えられます。なぜならユダヤ教にとって「罪の赦し」は複雑で多岐にわたる儀式を経てやっと実現することだったからです。イエスさまのように「言うだけ」で十分なら、複雑な儀式も、儀式を行う宗教者も、儀式のための宗教施設も、すべて否定されてしまい、無用の長物同然になるからです。

これでお分かりでしょうか。律法学者たちにイエスさまが「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と質問されたことの答えは、どちらでしょうか。

正解はどこにも記されていませんが、おそらく正解は「あなたの罪は赦される」と“言う”ことのほうが「易しい」です。面倒な儀式よりも、罪の赦しを“宣言する”ほうが簡単です。

いま痛みに苦しみ、悩んでいる人の心の中に「この私の苦しみや痛みは自分の犯した罪のせいなのか。私が悪いのか。私のどこが悪いのか。私は何も悪いことなどしていない」と義人ヨブのように葛藤し、苦悶する思いがもしあるならば、「あなたのせいではない!」と宣言することで、その人の心の重荷を軽くするために、面倒な儀式は要りません。言葉だけで十分です。

そして、そのことをなさったうえでイエスさまは、中風の人に「起きて、床を担いで歩け」とお命じになり、その人は歩けるようになりました。

わたしたちはイエスさまと同じ奇跡を行うことはできません。しかし、イエスさまと同じ方法で人の心の中から重荷を取り去り、軽くすることはできます。

石川献之助先生が、ご自身と私との共通のルーツを見出してくださったのは、今からちょうど50年前のクリスマス(1971年12月26日)に6歳になったばかりで幼稚園児だった私に成人洗礼を授けてくださった日本キリスト教団岡山聖心教会の永倉義雄先生が、救世軍士官学校の卒業生だったことです。石川先生のお父上の石川力之助先生も、救世軍の方でした。

もっとも私は救世軍についてほとんど知識はありませんし、永倉牧師から救世軍について特別多くのことを教えてもらった記憶はありません。それでも少しくらいは学んでおきたいと思い、つい最近のことですが、日本で最初の救世軍士官、山室軍平氏(1872~1940年)の『平民の福音』(初版1899(M32)年)を読みました。その中に今日の箇所に通じることが書かれていましたので、この機会にご紹介いたします。

「私共はまず、第一に、これまでの罪とがのゆるさるるため、又たましいを生まれかわらせていただくために、神様に祈とうせねばならぬ。そうして既にそのお祈が聞き届けられ、救いの恵みを受けたものは、進んでこれまでのあしき癖や、又は種種なる信仰上のさまたげに打勝つために、神様に祈らねばならぬ。(中略)

祈に面倒臭い儀式などない。子が親に物を言うに、なんでそんなによそよそしい切り口上がいり用なものであろう。(中略)

唯だ大切なるは真実をもって神様に祈ることである。又神様が祈をおききなさると信仰することである」(山室軍平『平民の福音』第520版、1975(S50)年、75~76頁)。

なんとシンプルでしょう。山室氏によると、罪が赦されるために祈らなければならない、祈りに面倒な儀式はない、子どもは親によそよそしいことを言わなくていい、真実をもっての祈りを神様が聞いてくださっていると信じて祈るだけでいい、というのです。私は全く同意します。

面倒な儀式よりも、真実の祈り。それこそがわたしたちをいやし、慰め、助けます。

(2022年2月20日 聖日礼拝)

2022年2月13日日曜日

からし種のたとえ(2022年2月13日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


「からし種のたとえ」

マルコによる福音書4章21~34節

関口 康

「それ(神の国)は、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

今日の箇所にも、先週の箇所に引き続き、イエスさまのたとえ話が記されています。内容的な関連性もあります。先週の箇所は「種蒔きのたとえ」でした。今日の箇所は、種を蒔く人が蒔くその種そのものについてのたとえです。

内容に入る前に、私に思いつくままの感想を述べさせていただきます。それは、イエスさまのたとえ話の中に先週の箇所の「種蒔きのたとえ」なり、今日の箇所の「からし種のたとえ」なり、あるいは「ぶどう園の農夫のたとえ」(マルコ12章1節)など農業そのものや農場経営に関するものがかなりあるのはなぜだろうという問いです。

それは当時のユダヤ民衆にとって身近な題材だったからというだけでなく、イエスさまご自身が何らかの仕方で農業そのものに取り組まれたか、農業の知識をお持ちだったからではないかということです。あくまで私の感想です。

対照的なのは使徒パウロです。実際にその点について指摘する人の意見を伺ったことがあるのは、パウロには農業の知識がないと言われても仕方がないことが書かれているということです。

それは、ローマの信徒への手紙11章17節以下で、ユダヤ人と異邦人の関係を野生のオリーブを栽培されているオリーブに接ぎ木することにたとえる話です。農業の知識がある人なら、そのようなことは絶対しない、というわけです。

あくまでたとえ話なので目くじらを立てるべきでないと言って済むかどうかは難しい問題です。気になる人にはとても気になるようですので、間違いならば間違いであることを認めたうえで、反省しなくてはならないでしょう。

このことで申し上げたいのは、知識を持つことと、そのことに実際に携わること、そのことについて経験することは、やっぱり違うし、経験が物を言う場面は少なくないことを認めざるをえないということです。

「私も」と言っておきます。私も10代、20代の頃は人生経験の長さや豊かさを振りかざす大人たちが大嫌いでした。年数で敵いっこないのですから、そんなことを持ち出されるのは横暴だと反発する人間でした。しかし、この年齢になってやっと「経験」は大切であると悟るようになりました。だからといって経験年数の長さで若い人を威圧するような真似だけはしたくないと思いますけれども。

さて、今日の箇所ですが、「からし種のたとえ」です。同じ趣旨のたとえが「パン種のたとえ」です。ルカによる福音書13章18節以下の段落に新共同訳聖書が「『からし種』と『パン種』のたとえ」という小見出しを付け、2つのたとえが続けて出てくることからも、趣旨が同じか、少なくともよく似ていることが分かります。

「そこで、イエスは言われた。『神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。』また言われた。『神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる』」(ルカによる福音書13章18~20節)。

「からし種」はマスタードの種です。「パン種」はパン生地に入れる酵母です。共通しているのは、種そのものはとても小さい、ということです。しかし、小さなからし種が大きな木になり、小さなパン種がパン全体を大きく膨らませる、ということです。小さなものの影響範囲は小さくない、ということです。それは良い意味にもなり、悪い意味にもなります。

悪い意味の話は避けたい気持ちになります。感染症の問題はすぐにお気づきになるでしょう。世界のどこか一点から始まったことが全世界に広がりました。悪い例を挙げて「同じように」と続けないほうがよいでしょう。「からし種のたとえ」は良い話です。今から2千年前たったひとりのイエスさまが、ガリラヤ湖の湖畔の漁師の町で、神の国の福音を宣べ伝える働きを始められ、そこで蒔かれた小さな種が、芽生え、育って、実を結び、今日の世界の教会があります。

その話を感染症と結び付けないほうがよいことは明らかです。しかし、いま私が申し上げたいのは「世界と歴史はひとつにつながっている」ということです。

原因と結果を単純に結びつけて数学的・物理的な「因果法則」や宗教的・哲学的な「因果応報」のようなことだけで考えるのは狭すぎます。世界も歴史もボタンを押せばそのとおり動く機械ではなく、必ず人間の意志や感情など、精神的(スピリチュアル)で人格的(パーソナル)な要素が絡んでいるからです。

そのような要素を含めた意味での「出発点」と「現在」の関係が、「種」と「実」の関係であり、それがイエスさまの宣教と、現在の世界のわたしたちキリスト教会の存在との関係です。そのことを世界の歴史が証明しています。

しかし、ここでこそわたしたちが大いに驚かなくてはならないのは、今から数えれば2千年前のイエスさまが、ご自分の宣教活動は「種蒔き」であって、種そのものは小さなものに過ぎないが、必ず大きな木になるとおっしゃったことが、世界の歴史の中で事実になったことでしょう。歴史の中で消えた宗教や哲学は数え切れません。その中でイエス・キリストの教会は失われず、歴史を重ね、今日に至っています。

それはまるでイエスさまが、2千年後のわたしたちひとりひとりの名前を知り、心の中をご存じであり、今日わたしたちが教会に来て礼拝をささげることをご存じであるかのようです。事実、イエスさまはご存じです。「わたしが蒔いた種が結んだ実(み)はあなたである」と、今は天の父なる神の右に着座されているイエスさまが、おっしゃっています。

反面、わたしたちが自分自身に問いかけなくてはならないこともあるでしょう。わたしたちは今から2千年後のことを考えているでしょうか。特に「教会の将来」について。2千年後と言わずとも、せめて20年後でも。あるいは30年後。

「持続可能な開発目標」(Sustainable Development Goals)(エスディージーズ)は大事です。「持続可能な教会目標」(Sustainable Church’s Goals)(エス“シー”ジーズ)を考えることは無意味でしょうか。そのことを考えることに意味を見出すことができるでしょうか。それどころではないでしょうか。自分の生活、自分の問題で精一杯でしょうか。

今年11月、昭島教会の創立70周年を迎えます。30年後、どうしたら100周年を迎えられるかをみんなで考えようではありませんか。

(2022年2月13日 聖日礼拝)

2022年2月6日日曜日

種蒔きのたとえ(2022年2月6日 聖日礼拝)


礼拝動画(you tube)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)

讃美歌21 412 昔主イエスの 奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

週報(第3606号)電子版はここをクリックするとダウンロードできます

宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「種蒔きのたとえ」

マルコによる福音書4章1~20節

関口 康

「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は五十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

今日の箇所の内容も、教会生活が長い方々にとってはよくご存じのところです。イエスさまはしばしば、たとえ話を用いて語られました。眼前の民衆にとって身近な題材を用いて教えることがお上手でした。イエスさまのたとえ話が今日まで多くの人に愛されているのは、内容に時代や民族の違いを超える普遍性があることが認められてきたからです。

今日の箇所の内容は「種蒔きのたとえ」です。内容に入る前に、イエスさまがこのたとえを、どこで・だれにお話しになったかを確認しておきます。そのことと、たとえ話の内容が関係していると思われるからです。

場所(どこで)は「湖のほとり」(1節)です。ガリラヤ湖(またの名をゲネサレト湖)です。相手(だれに)は「おびただしい群衆」(1節)です。ガリラヤ湖のほとりにおられるイエスさまを見つけて集まって来た大勢の人たちです。

人が大勢いればその中には必ずいろんな人がいます。イエスさまのことを信頼して、これからすぐにでも弟子になろうと決心しようとしていた人もいたに違いありませんが、必ずしもそうでない人もいたでしょう。そして、完全に否定的な態度でイエスさまを殺す計画を立てはじめた人々も含まれていました。律法学者、祭司長、長老たちです。

しかし、イエスさまの前に集まっていたのは「おびただしい群衆」でしたので、その中の誰がどのような考えを持っているかを見分けるのは不可能だったと考えられます。

しかも、このときイエスさまは、人流に押しつぶされないように陸から離れておられました。「舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられた」(1節)と書いてあります。そうなるといよいよ、イエスさまが集まった人ひとりひとりの顔や姿を見分けることは難しかったでしょう。

このような状況の中でイエスさまはこのたとえ話を語られたのだということを勘案する必要があります。そのこととたとえ話の内容が関係していると思われるからです。なぜ関係していると言えるのか。イエスさまはこのたとえ話の意味をご自分で解説しておられます。その解説を読むと関係が分かります。

イエスさまは「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」(14節)とおっしゃっています。「種」は「神の言葉」です。「種を蒔く」とは、種蒔きのたとえを用いてイエスさまがこのときなさっている宣教そのものです。この話をなさりながら「いままさに私は種を蒔いている」とイエスさまが自覚しておられたのは明らかです。しかもイエスさまは「種蒔きのたとえ」を群衆に向かって語られました。イエスさまが種を蒔いておられる畑は「群衆」です。

ここまで申し上げれば、鋭い方は、イエスさまのたとえ話の意図がお分かりになるでしょう。道端に落ちた種、石だらけで土の少ない所に落ちた種、茨の中に落ちた種、良い土地に落ちた種。イエスさまが挙げられた4つの場所に蒔かれた種そのものは同じ種です。

もちろん同じ種が4つの場所に同時に蒔かれることは現実的にはありえないことです。しかし、いま私が「同じ種」と申し上げる意味は、4つの場所に蒔かれた4つの種そのものに優劣がないということです。もし4つの種そのものに差があるとしたら、このたとえ話は成立しません。

だからこそ私は、イエスさまがこのたとえ話を語られた状況とたとえ話の内容は関係していると申し上げたのです。この場面の状況を具体的なイメージとして想像していただくとお分かりになるでしょう。イエスさまは、群衆に向かって説教しておられます。イエスさまはおひとりです。イエスさまの口はひとつです。イエスさまの御言葉を聞く人々の耳はたくさんあります。

そしてイエスさまご自身が「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」とおっしゃっているとおり、群衆に向かって説教しておられるイエスさまは、同じひとつの口から、同じひとつの種を蒔いておられるのです。4つの種の間に優劣の差はないと申し上げたのは、その意味です。

ですから、豊かな実を結ばなかった原因を種そのものの優劣に求めることはできません。種は同じでも、その同じ種が、豊かに実を結ぶ場合もあれば実を結ばない場合もあるということです。はっきり申します。このたとえ話の意味は、同じ説教を聞いても、それを聞く人によって違いが出てくる。そのことをイエスさまはおっしゃっているのです。

しかし、聞く人たちによって違いが出てくると言っても、それは何の違いでしょうか。生育歴の違いでしょうか。家庭環境の違いでしょうか。財産の違いでしょうか。そんなことで人を差別するようなことをイエスさまがおっしゃっているのでしょうか。もしそういう話なのであれば、ちょっとがっかり、かなりがっかり、とお感じになる方がおられても無理はないでしょう。

そのような意味ではないと思いたいです。イエスさまはたしかに4種類の人をあげています。しかしその一方で、イエスさまがおっしゃると思えないのは、4種類の人を差別することです。

厳しい面が全くない話であるとは言い切れません。イエス殺害をもくろむ律法学者、祭司長、長老たちに対する牽制の意図はあったでしょう。しかしイエスさまは、そのような人たちがいることも十分承知のうえで説教しておられます。

説教する立場に立てば誰でも思うことは、この御言葉を聞いてもらいたい、受け入れてもらいたい、信じてもらいたい、ということです。結果的にそのとき、その場では、聞いてもらえない、受け入れてもらえない、信じてもらえないということはあります。しかしそれで終わりではありません。今は無理でもいつか必ず聞いてもらいたい、受け入れてもらいたい、信じてもらいたいと願い続けるのが説教者です。すべての説教者がそうです。イエスさまもそうです。すべての人が「良い土地」になってほしい。そのことをイエスさまは願っておられたのです。

そうだとしたら、イエスさまからご覧になって4種類の人がいるというのは、あの人とこの人の違いではなく、ひとりの人の中の様々な側面を指していると考えることが可能ではありませんか。わたしたちが変わることをイエスさまが望んでおられるとすれば、その結論が成り立ちます。

同一人物が、今日の心は道端で、明日の心は石だらけで、明後日は茨の中で、明々後日の心は良い土地でと変化します。人の心は変わります。このたとえ話でイエスさまがおっしゃっているのは、4種類の人を差別することではなく、あなた自身が「良い土地」になってほしいという強い願いであるということです。

人の心は変わります。神もキリストも、聖書も信仰も、教会も、「そのようないかがわしいものは全く受け入れることができない」と感じておられる方のことを、イエスさまはあきらめません。教会もあきらめません。あなたのために祈ります。

(2022年2月6日 聖日礼拝)