2021年3月14日日曜日

主の変容(2021年3月14日 自宅・礼拝堂礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市)


讃美歌21 311番 血潮したたる 奏楽・長井志保乃さん

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マタイによる福音書17章1~13節

関口 康

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」

おはようございます。礼拝堂を開放しての礼拝を再開して3週目です。1都3県に対する政府の緊急事態宣言は、現時点の説明では来週日曜日まで続くようです。

しかしまた、たとえば私は今ほぼ毎日のように、電車やバスに乗って遠くの学校まで出かけ、外出先で食事をしています。対策をとっているかぎりはふだんと全く変わりません。それで怖いと私はもう思いません。

怖がる理由、外出しない理由、人と会わない理由を探し始めれば、事欠くことはありません。しかし、テレビや新聞の情報がすべてではありません。私が何を言おうと、誰の何の参考になるとも思いません。しかし、東京や神奈川の中心部分の状況を、自分の体と目で確かめています。

今の日本の政治を司る人々がもっと信頼できる人たちであれば、あの人々の言うとおりに動くことはやぶさかではありません。しかしそれが難しい状況です。これ以上は言わないでおきます。礼拝堂を閉鎖し続ける理由はもうないと私個人は考えています。

いま申し上げたことと、今日の聖書の箇所とが直接関係あるわけではありません。無理に関係づけたいとも思いません。しかし、この箇所に何が描かれているのか、聖書が何を言おうとしているのかを考えると、あながち全く無関係とも言いがたいところがあることをご理解いただけるのではないかと思えてきます。

イエスさまが、12人の弟子のうちの3人を特別にお選びになって、高い山に登られたというのです。その3人の弟子は、ペトロとヤコブとヨハネでした。「山頂で」とは書かれていませんが、登山の目的地が頂上でないということがありうるでしょうか。おそらく山頂かその付近でのことではないかと思われます。イエスさまのお姿が変わった、というのです。「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(2節)。

姿が変わるというのは、何か違うものに化けることを言うのかもしれません。イエスさまが何か別の存在へとお化けになられたのかどうかは分かりません。山に登って、頂上付近で、太陽の光に照らされて、顔と服が輝いたというような話かどうかも分かりません。

もし何か途轍もないことが起こったのだとしても、それを目撃したのは、この箇所に書かれているとおりに考えれば、ペトロとヤコブとヨハネの3人だけです。この3人が何を見たのか、あるいは何を感じたのか。そのことをわたしたちは、今日の箇所を読んで想像するしかありません。

続きを読みます。高い山でイエスさまのお姿が変わりました。そして、そのイエスさまの前にモーセとエリヤが現れ、その3人の語り合いが始まったというのです。

モーセは紀元前13世紀の人です。イスラエル人を、彼らが奴隷状態にされていたエジプトから脱出させ、約束の地カナンまで連れて行った人です。そしてその旅の途中で「モーセの十戒」を定めたことで知られます。エリヤは紀元前9世紀の人です。イスラエル王国が南北に分裂した後の時代の北王国の預言者で、バアルと呼ばれる異教の神を信じる人たちと対決しました。

その人たちがイエスさまの前に現れた、というわけです。ですから、こういう話というのは、どうしてこういうことが起こりえようか、科学的にありえない、というふうにたとえば反応するのは、そもそも聖書の読み方自体を間違えているとしか言いようがないです。

このように言えばおそらく皆さんにご納得いただけるでありましょう範囲内の言葉で言い換えれば、高い山の上で、ペトロとヤコブとヨハネが見ていたのは、イエスさまがモーセやエリヤについて熱を込めて説教なさるお姿だったのではないかということです。

モーセとエリヤの共通点を強いて言うとすれば、今のわたしたちが「旧約聖書」と呼ぶ39巻の書物の中で最も有名な人たちであるということでしょう。イスラエル人を危機の中から助け出す働きをしたという意味で、イスラエルの人々にとっての国民的英雄として知られている存在です。

その人々のことをイエスさまが、弟子たちに熱を込めてお話しになったのではないでしょうか。イエスさまはモーセとも語り合い、エリヤとも語り合い、そしてその語り合いの中に弟子たちを招き入れられたのではないでしょうか。

「ペトロが口をはさんでイエスに言った」(4節)と記されています。「口をはさむ」と言うと、まるでペトロが邪魔しているかのようです。

イエスさまは何も、弟子たちを放ったらかしにして、モーセとエリヤとの語り合いだけに夢中になっておられたわけではないでしょう。そういうのは礼拝に集まっている人たちの心に届かなくてもお構いなしの、まるで独り言のような説教をしているのと同じでしょう。

説教をさえぎって何かを言えば「私語を慎んでください」と注意されるかもしれませんが、説教者と会衆が対話の関係になることが間違っているとは言えないでしょう。

脱線しかかっているので、話を元に戻します。ペトロがイエスさまにひとつの提案をしました。その内容をかいつまんで言えば、せっかく素晴らしい方々がお集まりなので、お3人のために、わたしがここに仮小屋を3つ建てさせていただきますが、いかがでしょうか、ということです。

そうすれば、いつまでも、何日でも、じっくりお話しできるでしょうというような意味かもしれません。やっぱりちょっと余計なことを言っているようでもあります。こういうことをもし本当にペトロが言ったのだとすれば、口が過ぎる感じがないわけではありません。

しかしまた、ペトロが言っていることをもう少し厳しく考えると、ただ口が過ぎるというだけではなく、事柄のとらえ方に間違いがあるとも思えてきます。それは、ペトロが、イエスさまとモーセとエリヤのために「仮小屋を3つ建てる」と言っているところです。

つまり、ペトロは、3者を同格に見ています。ペトロの側からすれば、イエスさまを信じているけれども、モーセもエリヤもイエスさまと同じ意味で信じている、信頼している、という意味を持ち始めるでしょう。

しかし、ペトロがそう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆い、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」という声が聞こえ、彼らが目を上げると、モーセもエリヤもいなくなって、イエスさまだけが残っていたというのです。つまり、イエスさまの弟子はイエスさまの言葉に従って生きなさいと、彼らに明確な示しがあった、ということです。

このように考えると今日の箇所全体のテーマが分かってきます。イエスさまの弟子は誰に従うのか、です。イエス・キリストの教会は、イエス・キリストの言葉に従うのです。

現代の教会においては、全く通用しない話でしょうか。医学と科学と世論に従うだけならば、宗教は不要でしょう。そう思っている人たちは、もはや教会に足を向けることはないでしょう。

しかし、それでは済まないと思っている人たちが、教会に集まるのです。私もそうです。教会でなければならない意味があると思っているので、牧師を続けています。

すべての判断は各自に任されています。強制はありえません。それぞれ自分の確信に基づいて生きるべきです。

(2021年3月14日 自宅・礼拝堂礼拝)