コリントの信徒への手紙一12・31b~13・7
「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
いまお読みしました個所の最初に「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(12・31b)と書かれています。「最高の」と言いますとそれ以上のものが存在する余地が無くなってしまいますが、原文にそこまでの意味はありません。「非常に優れた」とか「飛び抜けて優れた」というくらいの意味です。「非常に優れた道」、それは「愛」であるということが今日の個所に記されています。しかし、愛以上のものはどこにも存在しない、というような排他的な意味ではありません。
実は、愛にも弱点があります。愛の始まりは、また始まってから後も、かなりの面で一方通行的なものだからです。「片想い」という言葉があるではありませんか。片想いは未完成で不完全な愛です。しかし、愛であることに変わりはないのです。それは痛みを伴います。悲しみや切なさがあります。弱点だらけです。しかし、それが愛なのです。ですから、愛以上のものが存在しないというわけではないのです。パウロもそんなことを言っているのではありません。愛は「非常に優れた道」、あるいは「飛び抜けて優れた道」であると書いているのです。
しかし、今日の個所でパウロがたしかに強調していることは、愛の重要性です。しかも、私が重要だと思いますことは今日の個所が置かれている文脈です。この個所は明らかに、12章の初めから書かれてきたことの続きです。それが意味することは、今日の個所もまた、「兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい」(12・1)という言葉から始まっている話の流れの中で理解されなければならないということです。つまり、今日の個所でパウロが強調している「愛」は、イエス・キリストを信じる信仰をもって生きているわたしたちキリスト者に与えられる「霊的な賜物」の一つであるということです。
しかも、「霊的な賜物」とは、聖霊なる神がわたしたちの存在の内部に新しく与えてくださる性質のことです。それが意味することは、「霊的な賜物」としての「愛」は、わたしたちが生まれつき持っているものではないということです。先天的・遺伝的に「霊的な賜物」を初めから持って生まれた人はいません。すべては生まれた後に与えられるのであり、イエス・キリストを信じる信仰と共に与えられるのです。
ですから、今日の個所にパウロが書いているような意味での「愛」を今はまだ自分は持っていないというような自覚がある人でも心配することはありません。これから身につけることができるのです。
前置き的な話を、もう少しだけ続けさせていただきます。今日の個所を理解するための前提として、もう一つ重要な点があります。それは何かと言いますと、今日の個所に「人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも」(1節)とか「預言する賜物を持ち」(2節)とか「あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも」(2節)とか「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも」(3節)とか「誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも」(3節)とか書いていますが、これらのことはすべて、先週までに学んだ12章の内容と非常に深く関係しているということです。
もう少し具体的に言います。12章に「ある人は霊によって知恵の言葉、ある人には同じ霊によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ霊によって信仰、ある人にはこの唯一の霊によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています」(12・8~11)と書かれていました。この中に「知恵」「知識」「信仰」「異言」などの言葉が出てきます。これらはすべて霊的な賜物なのですが、たとえこのようなものをいくら持っているとしても、もしそこに「愛」が無いのであれば、すべては空しいかぎりだと、パウロは書いているのです。別の言い方をすれば、「知恵」や「知識」や「信仰」や「異言」などと「愛」とを比較したうえで、これらのものよりも「愛」のほうが上であると言っているのです。
重要な点はまだあります。12章にパウロが書いていた「霊的な賜物」を与えられた人々というのは、すべて教会につながっている人々のことだったわけです。そのような「霊的な賜物」を与えられた人々が教会の中でいろいろな仕事をする、という話でした。教会の中の一人の人、あるいは特定の少数の人々だけが、教会の中のすべてを何もかも一手に引き受けるのではなく、教会のみんなで役割分担をしていくのだ、という話でした。それで「第一に使徒、第二に預言者、第三に教師」といった具合に、教会の中にいろいろな職務を担う人々がいる。そのようないろいろな働きをなす人々が寄り集まってひとつのキリストの体なる教会を造り上げていくのだ、という話でした。
これで分かることは、今日の個所に記されている「愛」の話も教会の話であり、教会の中での愛の話であるということです。教会の活動の話であり、あるいは教会の組織とか制度の話です。教会から切り離しても成り立つような、一般的な愛の話ではないのです。パウロがしているのは教会の話です。教会を成り立たせる根拠もしくは土台は愛であると言っているのであって、それ以上のことは語っていないのです。教会の中にたとえどれほどたくさんの人が集まっていても、どれほど活発な活動がなされていても、どれほど整った組織や制度があっても、どれほど立派な建物があっても、そこに「愛」が無いような教会は空しいかぎりだと言っているのです。教会とは無関係な、あるいはまたキリスト教信仰とは無関係な、一般的な愛の話をしているのではないのです。そのことをぜひご理解いただきたいと願っています。
しかし、もちろん、このようなことをパウロは教会を裁くためにだけ書いているのではありません。「教会よ、あなたがたには愛が無い、愛が無い、愛が無い、愛が無い」とただ責め立て、あげつらい、ぐうの音も出ないほど締めつけるために書いているわけではありません。そういうのは教会に対する拷問です。パウロという人が物腰においても、言うことにおいても、書くことにおいても厳しい人であったことは否定できません。しかし、「あなたには愛が無い」というのは、殺し文句です。パウロの意図は、教会を否定することではなく、肯定することであり、励ますことです。「愛があふれる教会をめざしましょう」という呼びかけであり、自分自身もこの愛に生きていきますからという決意表明でもあるのです。教会に向かっては「あなたがたには愛が無い」と言いながら自分自身は誰も愛そうとしないというのでは何の説得力もありません。「他人に厳しく自分に甘い」というのは最悪のパターンです。パウロはそういう人ではなかったと思います。
4節以下に、「愛」とは何なのかについて具体的に記されています。しかしこれも、くどいようですが、すべて教会の話であるということが忘れられてはなりません。教会に連なっているわたしたちに、教会の中で求められる「愛」の形はどのようなものなのか、ということが記されているのです。
しかし、もちろん、そうは言いましても、わたしたちが愛さなければならない存在は、教会の中にいる人たちだけではなく、教会に通っていない人たちも当然愛さなければなりません。キリスト者はキリスト者だけを愛すればよいのであって、キリスト者でない人たちのことは憎まなければならないというのは明らかに異常な話です。そういうことを今日私は話そうとしているのではないし、パウロもそういうことを言っているのではありません。ただ、今日の個所に書かれていることの趣旨は教会の中の話であるということを言いたいのです。一般的な愛については、この個所に書かれていることの応用で対応していくことができるでしょう。文脈がある話なのですから、その文脈を無視しないでくださいと言いたいだけです。
しかしまた、もう一回ひっくり返して考えてみますと、パウロが書いている趣旨からしても、また、わたしたち自身の教会の中で味わってきたことの実感からしても、教会の中での、キリスト者同士の愛と、一般的な愛とでは、何とも言葉に表現しづらい質的な違いというものがあるということも私は否定することができません。それは、教会というこの場所には、まるで自動給湯機のようにスイッチを入れるだけで、あとは放っておいても自動的に愛があふれているというような意味ではありません。正反対です。教会こそは非常にデリケートな場所であって、ある意味で他の場所以上に丁寧かつ慎重に愛を注ぎ、その愛を手塩にかけて育て、守っていかなければならない。そうしなければ、あっけなく壊れてしまうところなのです。
どうしてそうなのかといえば、いちばん単純なところを言えば、教会にはいろいろな人が集まっているからです。ここには、いろんな種類の心の傷を持った人がたくさんいるのです。教会は神さまがたててくださったところなのだから、どんなに乱暴なことをしても、びくともしない強いところなのだというのは誤解です。教会は神に助けを求めて集まっている弱い人間の集まりです。私自身も、他の牧師たちも、もちろんみんな弱い人間です。教会は、自分は神なしには生きていくことができない人間であることを自覚し、認め、神の助けのもとで、神と共に生きていくことを決心し、約束している者たちの集まりなのです。そのような壊れやすいデリケートな存在である教会を大切に守り、支えていくために必要な「愛」とは何なのか、ということをパウロは書いているのです。
もう時間が無くなってしまいましたので、4節以下の「愛」の説明の詳細に立ち入ることはできなくなりました。来週もう少し詳しくお話しいたしますので、今日は特に印象的な言葉を一つだけ拾っておきます。それは最初の「愛は忍耐強い」という言葉です。
それは要するに、我慢するということです。忍耐という形の愛をパウロが最初に取り上げていることは、やはり理由があることなのです。教会は自分の思いに任せてどんなに乱暴なことでも言いたい放題に言ってもいいとか、したい放題にしてもいい場所ではありません。わたしたちは教会では少し黙っていなければならないのです。教会は憂さ晴らしの場所ではないのです。そういうことをする人がいると、教会の中で必ず傷ついている人がいます。教会においてこそ、我慢が必要です。しかし、その我慢ないし忍耐がわたしたちを鍛えるのです。「忍耐は練達を生む」のです(ローマ5・4)。
(2012年1月29日、松戸小金原教会主日礼拝)