昨年(2009年)11月9日の日記に「私は香山さんと勝間さんを応援したいと思っています。けっこう似ているのではないかとか言うと、お二人ともお怒りになるでしょうか。共著が出るようでしたら買います」と、私は確かに書きました。
なんと、その共著がこのたび出ました。それが出ているということを一昨日知り、すぐにAmazonに注文しましたら、昨日届き、二時間で読み終えました。それが今、私の手元にあります。勝間和代・香山リカ(共著)『勝間さん、努力で幸せになれますか』(朝日新聞出版、2010年、定価1000円+税)です。
日本語としてはおかしい言い方ですが、「びっくりするほど面白い本」です。まだ読んでおられない方に心からお薦めいたします。今年はまだ始まったですが、2010年の「ベスト・ブック・オブ・ザ・イヤー」に推薦したいくらいです。
発行年月日が「2010年1月30日」となっている、まだ出ていないはずの(ちなみに今日は2010年1月20日です)、ともかく刷りたてホヤホヤの本ですので、ネタバレのようなことを書くのは控えますが、読後の第一声としては、「議論としては、ほとんど香山さんの勝ち。しかし、勝間さんの気持ちも痛いほど分かる」というものです。
あとは、香山さんの側に、ウソをついているとまでは言いませんが、故意に言わないでいるか、または明らかにトボケておられるところがあるのに、その点に勝間さんがちっとも突っ込もうとなさらないのは、勝間さんの優しさゆえなのか、無頓着ゆえなのか、むき出しの対抗意識ゆえなのかが分からないと感じました。
それは何のことかを具体的に書き始めるとネタバレの域に入ってしまいそうなので、詳しくは書けません。しかし、一言だけ。
香山さんは私などから見れば今でも(は余計ですが)相当美人に見えるし(私の妻ほどではありませんがとも書いておきます)、テレビや雑誌といったメディアへの露出はほとんど毎日という時期もありました。その香山さんが終始、精神科医としてのお立場から患者さんたちの立場を代弁して、本書のタイトルのとおり、「勝間さん、努力で幸せになれますか?(なれないのではありませんか?)」と問うておられるわけですが、そのようにお問いになる香山さん自身は、勝間さんと同じくらいか、あるいは勝間さんに勝るとも劣らないほどの「努力」を重ねてこられたに違いないと、遠目からは見えるのです。
これから先のことを書き始めると、書いている私自身がとても貧相な人間に思えてくるわけですが、香山さんのような方が「私は努力などしたことがない」とおっしゃると、「努力」の定義が違うんだなと改めて思い知らされます。全体重をかけても動かない石があると思っている私と、その同じ石を小指の先で動かすことができる方とがいる。ある人にとっての「努力」は、他の人にとっては「努力」と呼ぶに値しない。このことも厳然たる事実なのでしょう。
もし「努力なんかしなくても医者になれましたし、大学教授にもなれました」とかいう人がいるとしたら(香山さん自身がそんなふうにおっしゃっているわけではないのですが)、その人の言葉は話半分に聞いておくのが賢明だと、自分は凡人だと自覚している人ならば誰でも思います。苦しみ悩んでいる受験生たちや就活中の学生たちは、敵意をあらわにするか、底なしの絶望を味わうかのどちらかでしょう。香山さんは、まるで「勝間本」がご自分の患者の病気の原因であるかのように言ってしまっておられるところもないわけではありませんが、逆の面もあるのではないでしょうか。脱力系の(ふりをしている)「香山本」も、その点では同罪ではないか。
そういうことも、香山さん自身が「あとがきにかえて」の中に自嘲的に「上昇の勝間さん、下降のカヤマ」とお書きになっていますので、十分に自覚されているご様子です。「下降」とは、昇りつめたことがある方だけに語りうることですので。年齢が八つ離れていること(香山さんのほうが勝間さんよりも上)も関係あるかもしれません。10年くらい前の(売り出し中の)香山さんは十分な意味で「上昇の香山さん」だったのではありませんか。ご自覚がどうだったかはともかく、遠目にはそのように見えていましたけど。
そして「上昇の勝間さん」の場合、その上昇方法が、実にチープで(貧乏くさくて)、オタクで、みっともない(と最初は多くの人からそう見られていた)「インターネット」というこの手段であったということが、私にとっては称賛に値すると思っている点です。
ここから先に書くことはただの憶測ですが、勝間さんよりも八才年上の香山さんの売り出し中(一昔前ということになります)は、インターネットなしで戦うことを余儀なくされたので、いきなりテレビや雑誌などに(恐らくは嫌々ながら)露出せざるをえなかった。しかしそのような登場の仕方は、きわめて門戸が狭く、ラッキーや偶然の要素が少なくないので(テレビや雑誌に出たくても出られないと思っている人たちは山ほどいるわけでして)、「私が歩んできた道は自分の努力によって切り開いてきたものではない」と振り返ることができるし、そう言わざるをえない。
ところが、勝間さんの場合は、「(たぶん最初はファックス通信あたりから→)パソコン通信→メール→メーリングリスト→ブログ→単著→雑誌→(携帯とかツィッターとか)→テレビ」というステップを、すべて踏んでいくことができた。
そこで行われたことは、自分で文字を書き、自分で自分を宣伝し、多くの人々に自分を売り込むということです。すべては「自作自演」です。「はい、そのとおりです。私のしていることは自作自演ですが何か?」と臆面もなく明言できるのが、インターネットの強みでもあります。誰のプロデュースも要らない。お笑い芸人さんたちが苦労しているように見える面倒な師弟関係も一切ない。誰にも迷惑をかけてきた憶えはない代わりに、自分で文字を書くことに関しては誰からも助けてもらえない。自分の足で本を買いに行き、自分の手で辞書を引き、自分の目と心で読み、自分の字と言葉で書き、自分の口で語る。これを勝間さんは「自立」とか「努力」などと呼ばざるをえなかったのではないか。恥も外聞も捨てて(愛する配偶者や子どもたちに背中を向けて)「パソコンの前での自作自演」をとことんまでやり抜いてきた者たちには、勝間さんの気持ちが痛いほど分かります。
「世のカツマー(勝間さんの信奉者のこと)が、勝間さんのことをいくら真似しても、勝間さんのようになれない、成功しない、幸せになれないと悩んでいる。そういう人が私の患者の中にもいる」と香山さんは繰り返し言っておられますが、その人々が勝間さんほど徹底的な仕方でインターネット的「自作自演」を乗り越えてこられたのかどうかを知りたいところです。そこが足りないとしたら勝間さんを真似したことになりません。勝間さんは最初から最後まで(まだ終わっていませんが)「私の今あるはインターネットのおかげ」という一点を貫いておられますから。
これも11月9日の日記に書いたことの繰り返しですが、私の夢は、ファン・ルーラーについての翻訳と解説についての本を出版して、それの書評を香山リカ先生に書いていただき、朝日新聞で紹介していただくことです。最近の(と言ってよいのかな)香山先生のご関心が「ヒューマニズムの究極的根拠」というあたりにおありのようですので、それならファン・ルーラーの出番なんだけどなと、大いに意気込んでおります。
勝間さんと個人的にお知り合いになりたいとは思いませんが(キリスト教に関しては敬遠気味のご様子で、話題に共通点がなさそうですので)、「インターネットの活用方法」については、これからも大いに参考にさせていただきたいと願っています。