日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13) |
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「水とぶどう酒」
ヨハネによる福音書2章1~11節
昭島教会 秋場治憲兄
「イエスは母に言われた。『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。』」
今日の聖書箇所は主イエスが最初に行われた奇跡として、とても有名です。よきサマリア人の譬と同じように、知らない人はいないといっても過言ではないと思います。余りにも自明で、簡潔な物語として、さしたる感動もすることなく、私たちは足早にこの奇跡の横を走りぬけてしまうのではないでしょうか。今日はこの余りにも自明で、簡潔な奇跡の前で、じっくりと腰をおろし、この出来事に耳をすませてみたいと思います。
ヨハネ福音書を一章から読み始めてまず感じるのは、バプテスマのヨハネと主イエスの対比が色濃く出てきていることに気づかされます。ヨハネは「荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。[1]」ヨハネは荒れ野に出て行った。彼はらくだの毛衣を着て、腰に皮の帯を締めいなごと野密を食べ物としていた。ヨハネは律法に厳格に従い、禁欲的な生活をしていた。一方主イエスは弟子たちと婚礼に出席した。一方は人間の世界から出ていく。他方主イエスは入ってくる。バプテスマのヨハネは律法学者、ファリサイ人に対して「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。私は、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、私の後から来られる方は、私よりも優れておられる。私はその履物をお脱がせする値打ちもない。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕をもって、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。[2]」と排他的ともいえる厳しさで迫る。これがヨハネにとって主の道を真っ直ぐにするということ。[3]しかし、主イエスは彼らを排除していない。三章に入るとファリサイ派のニコデモ[4]と語らい教えられる。また律法学者からも招かれれば共に食事をし、教えられる。「よきサマリア人の譬[5]」では、「あなたも行って同じようにしなさい。」と諭される。またある時はヨハネの弟子たちが「私たちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」と問うている。これに対して主イエスは「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時、彼らは断食することになる。[6]」と答えています。今日のテキストを理解するための糸口が示されていると思います。
ヨハネ福音書は一章の冒頭(1~5節)で主イエスについて述べた後、6節からこのバプテスマのヨハネを登場させています。そしてフィリポ、ペテロ、アンデレ、ナタナエル等弟子たちの召命の記事に続いて、第二章でこのカナの婚礼の出来事を配置しています。弟子のナタナエルは最初はバプテスマのヨハネの弟子でしたが、「見よ、神の子羊」という告白を聞いてイエスに従った。バプテスマのヨハネからイエスへの移行が示されています。
主イエスはここ二章でも今見てきたように、弟子たちと一緒に婚礼の席に出席している。どうも主イエスの世界は、バプテスマのヨハネの世界の延長線上にはなく、異質なものを含んでいるようです。そんな背景の中で、ぶどう酒がなくなってしまった。予算が足りなかったのか、予想を上回る人たちが集まったのか、理由は明らかにされていませんが、ぶどう酒が無ければ喜びの席である婚礼が、台無しになってしまうことは間違いありません。主イエスの母マリアは、長男であるイエスに「ぶどう酒がなくなりました」と告げる。この母マリアの言葉に対する主イエスの返事が私たちを驚かせます。「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。私の時はまだ来ていません。[7]」(新共同訳)というものでした。原典ではこの「婦人よ、」と訳されている言葉は、ギュナイ:女よ、婦人よという呼びかけの言葉であり、決して失礼な使い方ではありませんが、それでも母と子という関係が、拒絶されていることは間違いありません。主イエスが来るべき自分の時に向けて歩み出す覚悟を示しているとみることができます。
1 主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷
父の家を離れて
私が示す地に行きなさい。
2 私はあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
3 あなたを祝福する人を私は祝福し
あなたを呪う者を私は呪う。
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」
4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。(新共同訳)
ここは主イエスが大上段に振りかぶって、母マリアに決別の宣言をしたと読むのではなく、私の時は来ていないのですと母マリアに理解を求めるようなニュアンスがあったのではないかと(個人的には)推察しています。主イエスがその公生涯に出るということは、他でもない十字架への道を歩み始めるということだからです。主イエスの胸の内は分かりませんが、弟子たちを集めながら、その準備の段階だったのではないでしょうか。
この時のマリアの胸中はどうだったのでしょうか。主イエスが弟子たちを集めてそのミッションに向けて出立しようとしている姿に、自らもその覚悟をしながら老預言者シメオンに言われた言葉を思い出していたのではないでしょうか。シメオンは「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉です。[9]」そして母マリアに「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。[10]」(新共同訳)
それでもイエスのこの「婦人よ」という言葉は、母と子という関係を拒絶していることには変わりありません。私はここのところを読んでいて、カナンの女[11]の信仰を思い出していました。なぜなら主イエスはここでも「婦人よ(ギュナイ)」という言葉を発しているからです。少々横道にそれますが、主イエスがティルスとシドン[12]の地方に行かれた時、この地に生まれた女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」と叫んだ。しかし主イエスは無視した。弟子たちはその鬱陶しさに、この女を追い払ってくれるように、イエスに願った。それでも叫ぶ女に主イエスが語った言葉は、「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」というものでした。それでもこのカナンの女は、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と懇願した。イエスは「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」と答えた。私はイスラエルに遣わされたのであり、異邦人のあなたは対象外である。その子供たちのパンを取り上げ、子犬にやるべきではない、と答えた。ここには明確な拒絶がある。娘の回復を願う母親の前に、大きな壁が立ちはだかった。
しかしヨハネ福音書はその冒頭4節には「この言葉に命があった。そして、この命は人の光であった。」(口語訳)と、また9節には「すべての人を照らすまことの光があって世に来た」と紹介したばかりではなかったか。それなのにこの拒絶はどうしたことか。矛盾するのではないか。普通はここであきらめるか捨て台詞を残して背をむけるものですが、カナンの女の口をついて出てきた言葉は、「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」というものでした。これは主イエスも予期していなかった言葉だったようです。口語訳にも新共同訳にも単に「婦人よ」としか訳出されていませんが、原典では主イエスの驚きの声が出ています。オー(感嘆詞) ギュナイ(婦人よ)、 メガレー(驚くべきもの) スー(あなたの) へ(定冠詞 その) ピスティス(信仰は) メガレーという言葉は、メガトン[13]という言葉の語源になったことばです。 「大きい」、「豊かな」そして「驚くべき」という意味の形容詞です。新共同訳は「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」、口語訳は「女よ、あなたの信仰は見上げたものである」となっています。私はこの主イエスの驚きの叫びを訳出すべきではないかと思っています。主イエスの言葉は、カナンの女を絶望に陥れて余りある厳しいものでした。しかし彼女は目の前の大きな山の向こうに、希望を確信していた。イエスの否定の言葉の背後に、肯定を信じた。イエスの母マリアがイエスの厳しい拒絶の言葉の背後に、受容を疑わなかったように、カナンの女も信じた。そして「あなたの願いどうりになるように」という言葉が返ってきた。すべての人を照らすまことの光がこの世にやってきた。この言葉に命があった。この言葉は神と共にあった。言葉は神であった。と聖書は証して止まない。
私たちは順境の日に神を讃美することは実に容易です。しかし一旦逆境の日を迎えた時には、いとも簡単に賛美は呪いに変わってしまうのではないでしょうか。私たちは自分の思い通りに事が運ばない時、神から捨てられ、神が敵になったと思われる時、このカナンの女の信仰、そしてマリアの信仰を思い起こしたいものです。カナンの女の目の前に立ちはだかっていた絶対に動かないと思われていた山が動いたのです。カナンの女の信仰は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。[14]」というへブル書の言葉の意味を私たちに示して余りあるものとなっています。
今日の本題に戻ります。「ぶどう酒がなくなりました」というマリアの訴えに、主イエスは「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです。私の時はまだ来ていません。」と拒絶しながらも、母マリアの「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」という母の期待にこたえます。これが母の願いを聞く最後の機会だと考えたからか、あるいはこの婚礼の喜びを台無しにしてはならないと考えたからか、或いは他に何か意図があったのか、定かには分かりません。聖書はそのことに触れてはいません。
「そこにはユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。」聖書の巻末に「度量衡および通貨」という付録が付いています。それによると1メトレテスは39ℓということですから、2~3メトレテススは78ℓ~117ℓという非常に大きなかめが六つも置いてあった。これらのかめに水をいっぱいに満たせというのですから、これは大仕事です。これは同時に日常的に清めを必要とする機会が如何に多くあったかということを物語っています。召使たちはマリアの言葉に従い、それらのかめを水でいっぱいに満たします。6節では「召し使いたちはかめの縁(ふち)まで水を満たした」と記されています。そしてこの作業が完了した時、主イエスは「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持っていきなさい。」と言われた。「水」は「ぶどう酒」に変えられていた、というのです。この点に今日の中心的なメッセージがあると思います。
21世紀に生き科学的な教育を受けて育ってきた我々には、にわかには信じられませんが、これは二千年前の時代においても有り得ないことだったのです。誰しもがそんな馬鹿なことがある訳がないと考えるでしょう。そんなことは充分承知の上で、聖書はこのあり得ないことが起こったと伝えているのです。ここで私たちが忘れてならないことは、≪主イエスに出会うと≫という但し書きがあるということです。この主人公を忘れて水がぶどう酒に変わる、そんなことある訳がないという。ここで言われていることは、ユダヤ人たちが用いていた「清めの水」が「主イエスの贖いの血潮」にとって変わられるということです。主イエスは「律法と預言者はヨハネの時までである。[15]」と言われた。モーセ以来二千年以上にわたってユダヤ人たちの生活の基盤であり、神に選ばれた民族としての誇りと自負を支えてきた律法が、主イエスの贖いの血潮によって取って代わられるというのですから穏やかではありません。主イエスの贖いの血潮によって清められた者たちには、もはや律法の立ち位置は残されていないというのです。清めの水がめは「縁のところまで」いっぱいに満たされた、それは律法という器が贖いの血潮によって余すところなく満たされたのである、というのが今日の中心的なメッセージです。バプテスマのヨハネの時代は過ぎ去り、新しい時代、ぶどう酒によって表される婚礼の席の喜びの時代が開始されたというのです。「なぜなら、罪は、もはやあなた方を支配することはないからです。あなた方は律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。[16]」「キリストは、すべて信じる者に義をえさせるために、律法の終わりとなられたのである。[17]」「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。[18]」「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、(私たちの)罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その(御子の)肉において罪を罪として処断されたのです。[19]」ヨハネ福音書はこの「清めの水」が「ぶどう酒」に変わったという出来事を通して、新しい時代の幕開けを宣言しているのです。
律法は新しい人、キリスト・イエスに結ばれ、その血潮によって清められた人には及ばないというのです。律法の限界はキリストまでである。主イエスが来られた時、モーセも律法もその働きを止めたのです。割礼も犠牲も安息日もなくなったのであり、すべての預言者もなくなったのです。水がぶどう酒に変えられたということは、≪主イエスに出会うと≫必然的に起こることであるということが分かります。バプテスマのヨハネが牢に捕らえられている時、イエスの御わざが聞こえてきた。しかしそれは自分が思い描いていたイメージとは異なっていた。彼はイエスの下へ弟子を使いに出し、「来るべき方はあなたですか。それともほかに誰かをまつべきでしょうか。」と問うた。それに対するイエスの答えは「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない者は、幸いである。[20]」と答えられた。私たちも私たちの心の内に律法が上がり込み、私たちを責めるなら、律法は神の御子の贖いの血潮によって余すところなく満たされ、私たちはその義によって覆われていることを忘れてはならないのです。ペテロは主イエスから目を話した瞬間に、荒れ狂う波が怖くなり溺れてしまったのです。
イエスに出会った罪人、病人が婚礼という喜びの席に招待された者のように、≪よきおとずれ≫を聞かされている。その心から失望が消えていった。今までこちらからしか物が見えなかった者が、あちらから、別の角度から見ることを教えられる。ルターはここで、だから単に水だけでなく、石でも石炭でも持って来なさい、と言っておられるようだと言っています。実際水よりも火よりも激しく御し難い人間の原罪の問題に変化と解放が起こるのです。
パウロは自分の欲する善はこれをなさず、欲せざる悪はこれをなす。私は何という惨めな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、私を救ってくれるだろうか、と呻きにも似た叫びをあげざるを得ない所から「私たちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。[21]」と救い主としてのキリストへと突き抜けています。ユダヤ人の清めの水から主イエス・キリストによる贖いの血潮へと導かれ、主イエスを送ってくださった神に感謝をささげています。山上の説教に「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは(主イエス・キリストの義によって)満たされる。[22]」(新共同訳)「幸いである」と訳されている言葉(マカリオイ)は、「祝福されている」という意味の形容詞です。義に飢え渇く者がどうして祝福されているのか、どうして幸いなのか。それは律法の器がぶどう酒によって満たされたように、キリスト・イエスによる贖いの血潮によって余すところなく満たされるからだ、というのです。この主イエスの最初の奇跡の中に、これから始まろうとしている神の御子の使命とその意義が満々とたたえられているのです。
最後にもう一か所主イエスが母マリアに「婦人よ」と呼びかけている箇所があります。それは十字架の上から母マリアに語りかけた言葉です。ギュナイ(婦人よ)、イデ([23]ごらんなさい)ホ(定冠詞)ヒュイオス(息子)スー(あなたの)、そして愛する弟子に イデ(ごらんなさい)ヘ(定冠詞)メーテル(母)スー(あなたの) とても簡単なギリシャ語です。それだけに私たちに多くのことを考えさせる言葉でもあります。日本的、情緒的に考えれば、母に対して息子としての役割を果たせなかったこと、多くの悲しみを与えてしまったことを詫び、自分の代りに愛する弟子をその息子として残すことによって母マリアの悲しみに寄り添ったと受け取ることも出来るかもしれません。ガリラヤのカナでのギュナイは非常に緊張に満ちたギュナイでしたが、最後のギュナイは母マリアへの慈しみに満ちた言葉ということもできる。
ヨハネ福音書によれば主イエスの生涯はガリラヤのカナでのギュナイ「婦人よ」に始まり、十字架の上からのギュナイ「婦人よ」に終わったということができると思います。そしてその生涯は律法という器を自分の血潮によって、満々と満たすという使命に生きた生涯であったということができるのではないかと思います。
当時の社会の中で律法を守ることの出来なかった人々、病を負う人々そしてサマリア人に対して「罪人」「不浄の民」というレッテルを貼り、排除するユダヤの宗教的エリート達に対して、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。[24]」「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。[25]」と敢然と立ち向かった生涯であったということができる。神はこの使命に生きた人の子イエスを神の子と認定し、ご自身の右に座すものとされたと聖書は証ししています。
マタイ福音書には「『私の母とはだれか。私の兄弟とはだれか。』そして弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。だれでも、私の天の父の御心を行う人が、私の兄弟、姉妹、また母である。』」
ここにはキリストの血潮によって贖われた者たちの新しい関係、「教会」が指し示されていると読むこともできます。私たちの用意したただの水は芳醇な香りを放ち、飲む者たちの心を喜びで満たすぶどう酒に変えられる。そしてこのぶどう酒は、私たちの罪を洗い流し、贖い、私たちの心を喜びで満たすもの。十字架上で流された主イエスの血潮である。私たちの困窮が喜びに変えられる、というのです。
来月は待降節に入ります。私たちが「久しく待ちにし 主はきませり」と待ちわびる方は、今日みてきたような生涯をおくられた方であることを深く心に刻み、待降節を迎えたいと思います。
[1] イザヤ書40:3「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」(新共同訳)「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために大路をまっすぐにせよ。』」(口語訳)
[3] 後日ヨハネが牢に捕らえられた時、二人の弟子をイエスのもとに遣わし、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか。」と問わせている。ヨハネが抱いていた救い主のイメージと漏れ聞くところが余りにも隔たりがあったからではないかと思われる。この問いに対して、あなた方が見たり、聞いたりしたことをありのままにヨハネに伝えなさい。「目の不自由な人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである。」(ルカ福音書7:18~23)
[7] 「婦人よ、あなたは私と、何のかかわりがありますか。私の時はまだきていません。」(口語訳)
RSVはo woman,what have you to do with me? My hour has not yet come.となっています。新改訳聖書は「女の方」として、最後にもってきています。
[12] 口語訳では「ツロとシドン」、ティルスは地中海東岸の町、カナからは12~13kmでフェニキ
アの通商都市。そこから36km北にシドンがある。ダビデ王の時代ツロの王ヒラムがダビデの神
殿建築のためにレバノンの木材と技術者を提供したことが旧約聖書に記されている。